Behind the scene

第十五章 ご支援いただいた皆様 (18.04.30 現在)

朝日新聞社のクラウドファンディングのプロジェクト 「王様鍵盤」を製作し、菅野邦彦の名人芸を聴こう へご支援いただいている皆様です。(敬称略)

残念ながら目標額に達せずクラウドファンディングは不成立になりました。ご支援ありがとうございました。シラベオサム様、返金いたしたく青山まで連絡お願いします。

Oe Megumi, 笠 優子、田口 俊明、溝井 武實、溝井 悦子、Shoko Hayashi, Aoyama Ikuhiko, 市川 一彦、Saito Keiko、Kpenggemar、 石津 祐介、後援会有志(中村 知以子、岩井 千尋、青山)、野尻 和寛、小庄司 紅実子、Ishii Tatsuo, 広瀬 志信、笹井 敏史、田辺 茂樹,  岡田 直記、鈴木 暁、浅見 修一、中丸 美樹、大野 奈緒美、竹村 実、望月 義文、後藤 修司、高山 七香, 薮本 亜里、安井 正和、今 章、土川 稔美、斎藤 マリ、泉 信也、菊島 正夫, Takita Minoru,  川崎 隆章、門上 紀和, 和田 賢正、堀田 充、大前 勇介、Yokomizo Naoko, 中山 詔子、河村 建介、田中 敏子、Ise Tsuyoshi, 山地 孝順, Uchima Rosa, Minami Hiroshi, ムトウ キヨコ、三国 俊彦、君嶋 隆幸、シラベ オサム、Kpenggemar、節句田 恵美、小枝 義人、

第十四章 松本英彦カルテット時代

 稀代のテナー奏者松本英彦は1926年の岡山生まれ。1951年渡辺晋のシックスジョーズに参加、1953年にはジョージ川口とビッグフォーを結成、日本のジャズブームをまきおこす一員となった。(ジョージ川口、中村八大、松本英彦、小野満。) 1959年には白木秀雄クインテットに移ったが、身分は渡辺晋が設立した「ナベプロ」に所属しつづけた。1963年には、日本人としてはじめてスイスのモントレージャズフェスティバルに招かれ、世界のジャズメンと共演し、世界No.1のテナー奏者と評価、絶賛された。この時のことを、後に、松本は菅野に、ロリンズも大したことがなかった、俺より上なのは杉浦ヤスノブさんだけだと思った、またピアノでは大沢保朗さんより即興、アドリブが出来るのはいなかったと語っている。(杉浦ヤスノブは、菅野の最初のレコーディングである朝日ソノシート「灼熱の太陽」で菅野と共演。―復刻版CD「The Early Days」(発売中)に3曲収録。大沢保朗は京都出身にちなんで菅野が「麻呂さん」と呼んでいる菅野の尊敬するピアニスト。「裏話第六章」参照。)

帰国した松本英彦にベースの鈴木勲はカルテットの結成をもちかけた。それを受けた松本英彦は、笹塚の自宅のスタジオに何人もの有望なピアニスト、ドラマーを呼んで、いろんな組み合わせをためして最上のカルテットを選考しようとしたのである。

その日、以前から松本宅に出入りしていたベースの小林陽一もたまたま松本宅を訪ねてきたので、小林も加えた選考会となった。(この世界では、誰かの仕事をとることを「ケツヲカク」と言うが、小林は「ケツカキ」にきたのではなく、たまたま偶然に参加した。)

選考会の当日、笹塚の大きな松本宅についた菅野はスタジオの入口の脱がれた靴の多さに驚いた。そのなかにひときわ大きなサイズの靴があり、ピアニストのMKさんも呼ばれているんだと微笑んだ。

大男の彼は手も大きく片手でオクターブはむろん11thも弾けた。菅野は「大きな手はピアニストに有利だからがんばれ」と以前初めて会ったときに彼を励ましたが、現在の菅野は大きければ有利であるとは言えないと思っている。例えば、大きな手があれば簡単にオクターブの2音を同時に弾けると思いがちだが、完璧に同時に2音が鳴ることはない。厳密にいえば、完璧に同時に鳴るはずが微妙にずれる。聴いている人々にはほとんどわからないかもしれないが、ピアニストには「そのずれ」が違和感となって以降の演奏を阻害する。それならば、最初から「ずれ」を前提にしたほうがまともじゃないか、オクターブを「ずれ」を楽しみながら、片手で弾こうが両手で弾こうがいいじゃないかということになる。

さて、選考会に戻る。松本は様々なピアノトリオを試した。菅野によれば、ベースは小林陽一を起用したかったようだが、話をもちこんだ当人をはずわけにはいかず鈴木勲に、ピアノは菅野、ドラムスはジョージ大塚に決定した。結局トニー・スコット離日前に数回共演したピアノトリオが選ばれたことになる。松本はバンドとはメンバーを固定して続けるものだと言い、一生離脱しないと約束させた。(少しして菅野は白木秀雄に誘われたが始めたばかりなのでとお断りしている。)

ところで、どうやら松本は新しいバンドの結成について「ナベプロ」と合意していたらしい。菅野、鈴木、大塚の3人ともナベプロの社員、月給とりになったのである。

松本英彦カルテットの最初の演奏は、当時新しくできた新橋から銀座に続く2階建てのアーケードの2階のお店であった。(現在の西銀座デパート? 銀座スウィングのあたり)

その後、都内各所でのライブ、全国各地での労音コンサート、NHKのバラエティ番組「夢で逢いましょう」への2年間の出演をつうじて実力、人気とも全国一のバンドとなった。いソノてルヲ氏はこのカルテットの演奏を「日本ジャズ史上のオール・タイム・ベスト」と絶賛しているが、菅野自身はどう思っていたのだろうか。

労音のコンサートとは、各地の労音の会員が毎月積み立てたお金で有名バンドを呼ぶのである。仕切っていたナベプロはかなりの収入を得たらしい。そしていずれのコンサートも大盛況であった。

菅野の記憶によればコンサートは1時間弱の1ステージで、歌手が3曲ばかり歌う。(中島潤、ロミー山田、マーサ三宅、丸山清子等が交代で出演)そして、ナベプロの指示でか必ず毎回松本英彦のヒット曲「ハーレム・ノクターン」と「ダニーボーイ」を演奏する。

「ハーレム・ノクターン」はアメリカのテナー奏者サム・テイラーの1950年代の世界的大ヒット曲だが、松本の演奏が圧倒的に上だったと菅野は言う。しかし、毎回同じ曲をやる(やらされる)ことに、菅野はだんだん耐え難くなっていく。

一方、大人気をバックに、また菅野の退団の可能性をだしに(こんな給料のままではスガチンはやめちゃうかもしれないぞ)、鈴木勲はナベプロのNo.2の紳士の丹野氏と給与増額の交渉をしていたようだ。半年ごとに給与が改定され2年間で当初の3倍にもなった。当時、経済的には豊かな生活を満喫していた菅野だが、ジャズミュージシャンが月給とりになったら駄目だと、どんな演奏をしても実入りが保障されては創造性、即興性、一期一会にかける心を失うと思いしったらしい。

 

一方、「夢で逢いましょう」は「シャボン玉ホリディ」とならぶテレビ創生期の二大バラエティ番組。毎週土曜日午後10時台に日比谷会館の日比谷第一スタジオから生放送された、初代ホステスの中嶋弘子の右に傾ける挨拶を覚えている方もおられるだろう。松本英彦カルテットは約2年レギュラー出演を続けた。

菅野は毎土曜日愛車サンダーバードで昼前に日比谷に出勤?した。昼食、夕食では豪勢な食事を楽しんだ。2度のリハーサルをへて本番となるのだが、その間出演者全員が待機している。当時は「俺たちは舶来の音楽をやっているんだ」と演歌歌手に対して鼻を高くしていたので (今は全くそうではなく、音楽はみな同じと思っているが) 北島三郎などはバンドの面々から逃げていたらしい。そんな中、親しくしてもらったのが、E.H.エリックと渥美清である。なにしろリハーサルと本番の間には3時間以上あり、菅野はしばしば二人に銀座のフランス料理の名店「プルニエ」や高級すし店でご馳走になった。E.H.エリックには何度も湘南でのヨット遊びにも誘われた。渥美は温厚、寡黙で当時はテレビが嫌いだったらしい。ある時「寅さん?」の銅像の除幕式に出演を頼まれ、しぶしぶモーニング姿ででかけたところ、「どっきりカメラ」にひっかかったと知りますますテレビ嫌いになった。

二代目ホステス役となる黒柳徹子は当時は中嶋弘子のアシスタントのような仕事をしていた。ある時鈴木勲が失礼にも黒柳のお尻を撫でて「ちっちゃなケツだなあ」と言った。それ以来バンドの面々は黒柳から毛嫌いされたと菅野は思っている。(当然の報いか。)

筆者も「夢で逢いましょう」には思い出がある。たしか1965年の秋、三鷹は大沢の下宿の2階にいた私の耳に素晴らしいジャズピアノが階下のテレビから聞こえてきた。これは邦彦さんだと思い、1階の大屋宅に通じる階段の途中で耳をすませていた。すると突然大屋の奥方が風呂上がりの全裸で現れた。彼女は一瞬で全身真赤になり、私は「失礼」と言い、自分の部屋に駆け戻った。一瞬で全身が赤くなることを知った忘れられない記憶である。

ところで当時の菅野は20代の青年。毎週土日がつぶれては、海へも山へもいけず(何の遊びもできず) 地獄のような生活だと思っていたそうだ。

それでも菅野はカルテットの一員として出演を続けたが、ある時鈴木勲と「つれしょん」をしながら愚痴りあった。なんで「上を向いて歩こう」なんかやらされんだ。(現在はそんなことはこれっぽっちも思っていない。実際、今年2017年にはNYで「上を向いて歩こう」を演奏している。)この分では次には「こんにちは赤ちゃんをやらされるぞ」などと言い合った。その時、トイレの大の部屋から、演出の末盛氏がでてきたのである。翌週カルテットは首になったが、この時の会話を聞かれたせいではないかと菅野は思っている。

 

松本英彦カルテット時代の最大の思い出は、ニューポートジャズフェスティバル イン東京(日比谷) と イン京都(円山)の野外公演である。それぞれ一日のイベントに多くのジャズメンーガレスピー、マイルス、ウィントン・ケリー、ポール・チャンバース、ハービー・ハンコック、カーメン・マクレー等々―が参加した。菅野が楽しみにしていたテナーのハンク・モブレーが来日出来なくなったのが残念であった。目玉はマイルスだったが、「とり」は松本英彦カルテットが務めた。そして東京、京都とも「とり」のカルテットの最後の曲は松本作曲の「ベトナムに平和がくる時」で、シャイな松本はソプラノサックスを吹いた。祈りがつうじたのか、その一か月後にベトナムは終戦をむかえたのである。

京都の円山での公演の後、出演者全員、マスコミ、プロモーション会社等大勢での大宴会があり、豪華な食事の後、ウィントン・ケリーがアップライトのピアノにむかい、ゴードンのジンをラッパ飲みするポール・チャンバースとおとなしい真面目なジミー・コブがあとに続いた。ケリーはピアノにむかうときに俺が一曲弾くから次はお前だと菅野に告げた。菅野は「え?俺で大丈夫かな」と不安におそわれた。その時菅野の左隣には黒人のノーマン・ティモンズ、右隣りには菅野の大好きなハービー・ハンコックがすわっていた。ハンコックは始終菅野をつついては「女を世話しろ」とつぶやいたが、東京はともかく見知らぬ京都ではと菅野は困りはてていた。

ウィントン・ケリーは2メートル近い大男。残念ながらステージと同じ曲であったが、いかにもアメリカらしい組曲「グランドキャニオン」のなかの1曲を弾きはじめた。本番の野外での音とは違って室内のケリーの音は心地よく響いて、大男がどうしてこんな繊細な音が出せるんだと菅野は感心した。ただ、やっている音楽は俺とおんなじだ。これなら後に続けられるといささか自信もわいて心の準備もできた。1曲を弾き終わり、ケリーは菅野にむけて次はおまえだと指をさししめしたが、菅野はハンコックにつつかれていて一瞬たちあがるのが遅れた。腰を上げかけた時にはすでに左隣のノーマン・ティモンズがピアノにむかっていたのである。カーメン・マクレーのピアノのティモンズは難し気なピアノを弾きはじめたが、宴席にはあわなかったのか会場はシーンとなり白けた雰囲気がただよった。つぎつぎとジャズメンは席を立ちあっという間にお開きとなった。あまりの「お開き」の速さに菅野は呆然としたが、その時「ティモンズは最悪」「ティモンズは最悪」との評価が業界に定着し、以来彼は日本での仕事をなくすのである。

 

松本英彦カルテット結成以来約2年、人気と収入は申し分なかったが、菅野はだんだん憂鬱になっていく。底流には凸凹なピアノの鍵盤に対する楽器としての疑問、不快感があったが、直接的には「雇われ」の身につきまとう束縛感であった。おしきせのスケジュール、おしきせの曲目が、一期一会の即興演奏こそジャズの神髄と思う菅野に束縛として感じられる。いろんな曲をやりたい、ほうぼうの名人と演奏してみたいという20代の伸び盛りのクリスタルのようなハートに束縛感は堪えがたいものとなった。

菅野は品性ある松本とその音楽を深く敬愛していたが、ついにナベプロをやめることを決意し、カルテットから離脱する。菅野なきあと、ほどなくカルテットは解散する。「日本ジャズ史上のオール・タイム・ベスト」とうたわれた松本英彦カルテットはその幕をとじるのである。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

菅野邦彦さんとコンガの小川庸一さんには、東京方面でのライブの後、拙宅にお泊まりいただいている。だいたい深夜2時ごろ帰宅し、夜が明けるまで、音楽談義やらレコード、CDを聴いて就寝。その時に聞いた話があまりに面白いので記録しておきたいと思ったのがこのコーナーをはじめた動機である。(人名について、文中、しばしば敬称を略しているがお許しいただきたい)(文責 青山)

______________________________________________________________________

第一章 エロル ガーナー

菅野邦彦には敬愛する音楽家が大勢いるが、なかでも突出して師ともあおぐ存在がエロル ガーナーである。

エロル ガーナーが来日したのは一度だけらしい。そのころ菅野はピアノトリオを率いて連夜六本木の「ネロビアンコ」で演奏していた。ガーナーのコンサート当日、菅野はピアノの代打をたてて厚生年金会館にかけつけた。司会は今は亡きいソノてルヲが務めていた。いソノてルヲはそのときガーナーにコンサートが終わったら菅野のピアノを聴いてみるよう薦めたらしい。

コンサートがおわるや菅野は「ネロビアンコ」にもどったが、ガーナーがスガチンを聴きに来るというニュースがかけめぐり、お店は立錐の余地のないほど満員になり、お店に入りきらない人が外にあふれたという。

そんななか、しばらくして、小柄のガーナーがお客をかきわけかきわけしてピアノのそばに到着した。「ネロビアンコ」のスタッフのO氏がすかさず「電話帳」と指示を出す。小柄のガーナーはピアノの椅子の上に厚い電話帳を敷いてピアノをひくのである。O氏はすぐにまたガーナーのお好みのブラディマリーを用意した。ぐびぐびとそれを飲んだガーナーは、菅野のもとめに応じて「Body & Seoul」を弾きはじめた。その時「ネロビアンコ」のオーナーのT氏はこんな千載一遇の録音の機会を逃すものかとお店のマスター室へお客をかきわけかきわけ目指した。菅野の記憶によると3コーラス目ぐらいにマスター室にやっと到着したT氏が録音のスウィッチをいれた。その瞬間、ガーナーは斜め後方を振り返り、かすかに微笑をうかべて演奏をやめ、菅野にピアノをゆずった。

菅野が、録音、ビデオ、冷暖房の機械等のかすかな音に、過敏なのも頷けるではないか。

その夜、「ネロビアンコ」がはねた後、菅野は愛車「サンダーバード」でガーナーをニューオータニのスウィートまでおくり、音楽談義に時を忘れた。ガーナーは「一日にひとつだけでいいから、そのひとつをマスターする毎日が大事だ」と語ったという。結局一睡もしないで菅野と語り明かしたガーナーは、眠ることなく次の演奏地のオーストラリアに向って出立した。

その次に菅野がガーナーに会うのはニューヨーク。六本木に開店するジャズクラブ「ミスティ」のピアノの買い付けに行った時である。菅野は連日友人の堀田氏の案内で友人の徳川氏、その時ニューヨークにいたコンガの小川庸一氏と一緒にライブを楽しんでいた。その頃ガーナーはセントレジスホテルに泊まり、その地下のナイトクラブで演奏していた。1か月単位で出演者がかわるシステムで、スタンゲッツ、サラボーン等スターが出演する男性客はネクタイ着用必須のクラブである。

菅野はある夜、堀田氏、小川氏とともにガーナーの演奏を楽しんだ。 演奏後二人はガーナーのホテルの部屋を訪ね、菅野は、新しいお店「ミスティ」のため、ニューヨークスタンウェイのピアノを求めにきたのだと話した。

ガーナーは何度も「Goody Goody」と頷きながら喜んでくれたという。

 

第二章 ミスティ

1970年代はじめ、実業家、三木プーリ(株)の三木氏とその奥方はジャズのライブの洒落たお店をひらきたいと熱望し所有する六本木のお店の改造を計画した。ご両人とも菅野の大ファンで、当時「ネロビアンコ」で演奏していた菅野に声をかけた。菅野はニューヨークスタンウェイのピアノを買い付けること、その折の菅野の世界旅行の費用を負担することの二つの条件を付けた。それを快諾したご両人は、菅野の気にいるピアノを見つけてほしいと、ピアノ代金、経費、支度金をあわせて一千万円を菅野に手渡した。

当時は円貨持ち出し制限のあった時代、菅野ご一行は、その大金を、各人腹巻のしたにかくして出国し (税関では引っ掛からなかった。もう時効だからと書いている)ニューヨークのヒルトンホテルに投宿した。当時のニューヨークは治安が悪く、強盗、盗難が心配で、菅野は大金を新聞紙で丸めて包み、ホテルの金庫にあずけたり、時には部屋に持ち帰り無事を確かめた。

ヒルトンから徒歩数分のところにニューヨークスタンウェイがあった。菅野は訪問するなり社長のアルベルト ビアンキにアポなしで面会を求めた。はじめは日本人が何をしにと思ったことだろう。そこには常時40-50台以上のピアノがあって、クラシックに限らずいろんな音楽ジャンルの常連客が試弾していた。(ある日はグレングールドが菅野の試弾を聴いていた。)その部屋は、木材の断面が壁面となっている特殊な造りで、荘厳でやわらかくも堅い音がしたという。

菅野はベストのピアノをえらぶべく連日足を運び、ついに最終決断を下したが、2週間程度で日本につくと思っていた船便が一カ月近くかかると知り大驚愕。当時知人でJALカーゴのニューヨーク支店長の堀田氏を説得し、史上初のグランドピアノの空輸となった。(初めての事ゆえ堀田氏はグランドピアノと同乗し指揮をとり日本に戻られた。)菅野はそのあと、マドリッド、パリ、ローマ、カイロを歴訪、開店の前日に帰国した。

三木ご夫妻のお店は、ピアノを搬入してから内装、また、ピアノに湿気を与えないよう除湿機を何台も動かしながらの漆喰の壁づくりと苦労されたようだが、開店の日には準備万端。選ばれたニューヨークスタンウェイのピアノにはご夫妻もご満悦。素晴らしい音色にお客の皆様も感嘆した。そのピアノを弾く菅野の音はFM東京でながされもしたが、残念ながらLPの録音をすることは逸した。

お店は「ミスティ」と名づけられたが、「ミスティ」はご存知 エロル ガーナー作の名曲、また菅野の「おはこ」のひとつでもある。菅野はミスティの初代ハウスピアニストを務めたことになる。(二代目は山本剛)

菅野の夢のひとつは、エロル ガーナー ファンデーションと協賛して、世界各国のミスティ弾きをあつめ、世界ミスティコンテストをひらくことである。求むスポンサーである。

尚、「ミスティ」のお店は残念ながら閉じられたが、ニューヨークスタンウェイのピアノは、現在、三木プーリ(株)の神奈川県のテクニカルセンターのロビーにあって、よく手入れされたピアノを社員の皆様が楽しんでいるという。

 

第三章 麦わら帽子にあいた弾丸のあと (ボリビア放浪記その一)

菅野がジャズピアニストとして人気絶頂のとき突然ブラジルに旅立ってしまったのは有名である。

当時のブラジルでは短期滞在が三カ月でそれ以上いるためには(ビザの更新のためには)一度出国し再入国する必要があった。

菅野は一度ボリビアに出てから再入国しようと、ブラジルのはずれ、ボリビアとの国境にちかいコルンバに滞在し毎夜のように宴会をひらき金をばらまいた。その折、泊っていた旅館と市内の連邦警察の役人はぐるになって、金づるを逃すまいとしてか、なかなか出国の判を押してくれなかったという。(判を持った手を挙げて今にも判を押しそうにするが微笑を浮かべてやめることが続いた。)

漸くボリビアに入国し汽車で首都ラパスを目指そうとしたがちょうど雨季。湿地帯パンタナールは湖と化し(アンデスの氷が溶けて流れでて湿地が湖となる)、町の半分、或いは大部分が水のしたに沈んでいる状態で容易にラパスにはいけなかった。パンタナ―ルは例えば教会の塔の上部だけが水面から出ているような状況で、フライにすると旨い魚の「ドラード」がいとも簡単に捕れた。

汽車が動くようになってラパスを目指すが生来の風来坊の菅野、終点の市の中心部手前の駅でおりた。

ボリビアの首都ラパスは中心街の標高が3,600mで別名「雲の上の都市」とも呼ばれるすり鉢状の都市。すり鉢の外側の縁には低所得層(インディアン)が、すり鉢の底の部分には高所得者層が住んでいる。

手前の駅で下車したのは菅野とブラジル人の二人。中心街へと荷物を持ってすり鉢を下り始めた。その時いきなり追剥の一団があらわれブラジル人の荷物を強奪した。荷物を失ったブラジル人はほうほうの体ですり鉢の上の方に逃げた。菅野は難をのがれたが、追剥は荷物を奪うとニコニコと笑いそれ以上は追いかけなかった。

中心街に投宿した菅野は、ポニー、テント、飯合を借り、ラパス郊外の田舎の草原への小旅行を楽しんでいた。そんなある日の夕暮れ時、川のほとりでケロシンランプをつけて飯を炊いていたその向こうの夕日の中に、鋤、鍬を持った農民の一団のシルエットがうかんだ。女性二人を含む十名ほどが川を渡ってきてすべてを置いて行けという。首の後ろに隠していたパスポートと靴下の中にいれた小額の金以外は、ソニーのウォークマンはじめ一切合財を奪われた。一団は落ちる夕日の左手の方角を指さし、オニブス(バス)の停留所があるからそこからラパスへ戻れると告げた。

菅野は好奇心と用心深さをあわせもつ性格である。好奇心に導かれるが、危険を察知すると用心深くなる。一団が農民と知った菅野は、セーターひとつの身軽になったせいか、事もあろうに月明かりを頼りに十分な距離を置いて一団をつけはじめた。3時間以上歩き、深夜の闇の中で、塀に空いた穴の中から、菅野はあかりをつけた農家の一室で略奪品を分配している一団をのぞき見していた。突然寒さにおそわれた菅野は、再び捕まる危険も感じ、あたりを物色し、鶏小屋の麦藁のなかにもぐりこみ、寒さをしのぐとともに仮眠をとった。その時、かぶっていた麦わら帽子を切り取り、顔に貼り付けた夢をみたという。(たいした記憶力ではないか。)

翌朝一番鶏とともに歩き始めた菅野は教えられた場所に本当にバス停があるのに驚いた。バスは30キロ近く走りラパスに戻った菅野は真っ先に領事館に駆け込み、追剥にあった旨を告げた。その時、奥の方から「菅野さんじゃないですか」と若い紳士があらわれた。詳しい事情を話すと、お金を稼がないといけませんね。それまではお金をお貸ししましょうと大変親切である。ごく最近、菊池雅章とエルヴィン・ジョーンズのコンサートが大盛況だったので、1週間後位にそのテアトルミニンシパルで大統領も招いてコンサートをやればと薦められた。

 

第四章 麦わら帽子にあいた弾丸のあと (ボリビア放浪記その二)

 テアトルミニンシパルでのクラシック以外のコンサートはラパスで唯一のジャズライブのお店「クラブデゥジャズ」のオーナーが仕切っていると聞いた菅野は早速その店にでかけ打ち合わせをはじめた。基本はトリオでということで、ラパスのオーケストラのベース奏者とジャズドラマーのトニー・フェルナンドが決まった。結局そのお店でも七,八回菅野はライブをやることになる。大野研二さんのはからいで七,八人のミュージシャンがときおり参加することもあった。そのお店の片隅に有馬徹とノーチェ・クバ―ナのレコードが積まれていたのを菅野は覚えていて、「彼等もはるばる来ていたんだ」と思った。トニーは金髪で真っ青な眼をしているが顔、皮膚の色、形は典型的なインディオ。「これぞインカの王様」という風貌で、菅野は彼のドラミングも大いに気に入り機会があればまた共演したいと思っている。

ところで、コンサートの当日、突然、領事館を通じて、大統領から娘のためにピアノを買いたいので菅野に選んでほしいという依頼が来た。SPにまもられた大統領の愛娘と菅野はヤマハの店に出向くが本物のピアノは一台もなくカタログがあるばかり。ボリビアの状況に驚きながらカタログから選ぶほかはなかった。

会場に戻った菅野はその日も穴のあいた靴下をはいていた。金欠でそんな靴下しかなく、客席から靴下の穴が見えないように苦心したそうだ。コンサートは大盛況の満席だったが、演奏の直前に、ベーシストが、ソロは「コンドルが飛んでいく」しか出来ないという。実際演奏をはじめてみると、ベースのソロになるや、すべての曲が(たとえばサマータイムでも)「コンドルが飛んでいく」になる。するとその都度客席全員の大合唱がはじまる。当時「コンドル」がつまびらかでなかった菅野は必死になって、まっかになりながらピアノを弾いた。

コンサートの一部と二部の間の休憩時間の事を菅野は鮮明に覚えている。バンドのメンバーは舞台のそでの部屋で談笑していたがその部屋も典型的なヨーロッパ風のコンサートホールにふさわしく天井が非常に高く、長いカーテンが天井からおりていた。いきなりトニーがその長いカーテンを開けると眼前にラパスの守り神で標高6,400mのイリマニ山が窓いっぱいに現れた。氷に輝くイリマニ山の神秘な光景にみとれていると、トニーが近づいてきて、小声で「祖父から聞いた内緒の話だけど、あの山の氷の下は黄金でうずめつくされている」と教えてくれた。(後年、日本の建設会社が同様の話を聞きつけ、真偽を確かめるべく探知機械で調査したが何十メートルもある氷のなかの探知には失敗したらしい。菅野は、神の山を破壊したら駄目だと言っている。)

その日のコンサートは成功裡に幕を閉じたが、なにやかや理由をつけて、ギャラの支払いは遅れたままで(結局支払われることなく)、菅野はしばらくラパスに居続けることになる。

ある日、菅野はラパスの中華料理店で偶然にも田中角栄氏と出会った。田中氏はボリビアに土地を買いに来たんだと語った。彼が言うようにバンバン購入していたとしたら、現在は真紀子嬢(前文科相)の所有になるか。ただ、その頃田中角栄氏は、メジャーからの影響の低減をねらい、独自の資源外交を展開して、ブラジルやメキシコとも新しい協力関係を築こうとしていた時期にあたるから、ボリビアにもその面での視察に来ていたのかもしれない。(イスラエルからアラブへの軸足の変化に、米国が自国のロッキードや親米の小佐野氏を切ってまで角栄氏を追い落としたという謀略説があることを思い出す方がおられるかもしれない。)

ところで、その時代のボリビアは麻薬まみれだった。政府、地方の役人、軍隊、警官から民間人までかなりの組織、個人が麻薬に関与していた。なにしろ、大統領がブリーフケースにコカインを詰めて外交特権を利用してニューヨークの国連に出向いたという噂が流れるほどの国である。

当時、菅野はブラジルのサンタナのバンドから流れてきたパーカッショニスト(コンガプレイヤー)に音楽的に通じるものがあって、しばしば行動を共にしていたが、同時に彼にも麻薬の匂いを感じ、ひょっとしたら売人ではないかと疑っていた。

ある日、彼から郊外にサンペドロをためしにいこうと誘われ彼のジープに乗って出かけた。(サンペドロはサボテンの一種。当時は合法で幻覚、高揚感が得られるという。)いちめん砂漠のなかを砂ぼこりを立てながらドライブしていた時、後方から軍隊のジープが迫ってきて、彼がスピードを上げたためか、いきなり銃撃がきた。乾燥した高地の砂漠の中おもちゃのようなパンパンパンと高い乾いた音だったという。何発かが彼に命中、即死し、コントロールを失ったジープは路肩の瓦礫と砂の中に横転し、彼の死体はジープの下敷きに、菅野は砂漠のなかに砂まみれに抛り出された。菅野はとっさに死んだふりをする以外にないと覚悟を決めた。

砂を踏みしめる多数の足音が近づいてきて菅野は軍靴にかけられ転がされたが死んだふりを続けた。掠奪者はジープを探り、コカインをみつけたのか数分で立ち去った。しばらくして立ち上がった菅野はかぶっていた麦わら帽子に弾丸のあとの穴があいているのに気付き九死に一生を得たのだと悟った。

死体をどうすればいいのか、どうしたらラパスへ戻れるのか茫然としていた菅野に荷台に乗った老人がゆっくりと近づいてきた。(記憶力が抜群な菅野なのだが、荷台をひいていたのか、牛なのか、ロバなのか、それともポニーなのか覚えていない。)老人は死体をみてアレマーと驚いたが、ボリビアでは日常の事だから捨て置くように言い、菅野を荷台に乗せてラパスまで運んでくれた。

以来、穴のあいた麦わら帽子は菅野の宝物であり守り神である。その後ブラジルに戻り数年を過ごし、さらにニューヨークでの数年をへて帰国することになるが、帰国しても菅野はその帽子を大切にしていた。

帰国後、菅野は昔出ていたテレビ11PMによばれた。矢追氏がUFO情報を流しているコーナーがあって、麦わら帽子姿でブラジルでのUFO体験を話した記憶があるという。そして、大橋巨泉のサラブレッズのあとサンバを弾いた。

その日は、番組とは別に、当時の11PMのスポンサーであるJALとサントリーのCMについての菅野のアイデアがそのまま採用され評判になった日でもある。ご存知の方も多いかもしれないが以下のようなものだ。

大橋巨泉がJALの袋をぶらさげてピアノのそばにいる菅野にちかづく。

「スガチン、お帰り。(袋を見せて)これおみやげだそうだが、何が入っているんだい?」

「イグアナ」

巨泉「ワーッ」と驚き、恐る恐る中をのぞき、「なーんだ、だるま(サントリーオールド)じゃないか」と取り出して、「一杯やっか」となったあと、タキシードに穴のあいた麦わら帽子姿の菅野がサンバを弾くというもの。

このCMの評判のせいか、ほどなくサントリーから大量の「だるま」が菅野のもとに贈られてきた。菅野は全量を父君に届けたが、洋酒党の父君、菅野健介氏がご満悦だったのは言うまでもない。

 

第五章 スコットランドからの手紙

 今回は趣向を変えて、ファンサイドからの裏話をお届する。

筆者がジャズに夢中になったのは中学2年から。毎月の小遣いを何とかやりくりして月一枚のLPを買うのがやっとでした。(中学生の私に一割引きで売ってくれた「三宮レコード店」の小母さん、ほんとに有難うございました。)毎晩すりきれそうになるまで聴きこんで、何十年たった今、レコードに針を落としても、ノイズの個所まで記憶しているのには我ながらあきれます。今のCD世代の方々には想像するのも難しいかもしれませんが、そんなレコード全盛時代を経験された、スコットランド在住のU氏からの手紙の一部をご本人の了解を得て紹介させていただきます。

(U氏からの手紙)

ジャズに目覚めたのが、1965年のことでした。それまではクラシック音楽一辺倒で、ジャズは騒音だと思っていたのですが、ある日、たまたま手にしたバド・パウエルの輸入盤LPに大いに惹かれ、一気にジャズピアノに傾倒するようになったのです。以来、収集したジャズピアノのLPは三千枚以上になるかと思います。
1973年か4年頃だったかと思いますが、六本木の「オーディオユニオン」へスピーカーを買いに行った時のことです。試聴に「何かピアノトリオをかけてください」とお願いしたところ、素晴らしく洗練されたピアノトリオをかけてくださり、思わず(コレは誰だ?)と、こころの中で叫んでいました。いつもならほとんど瞬時にピアニストの名前が出てくるんですが、この時ばかりは名前が出てこないんです。(いったい誰だ、コレは?!)ジャケットを見せてもらうのを控えて、必死にピアニストの正体を突き止めようとしました。しかし判りません。とうとう「これは誰ですか?」と尋ねるに及び、「菅野邦彦ですよ」との返事。それまで日本人ジャズメンにまったく関心を寄せなかった私は、「エーッ?コレ日本人ですか?」と腰を抜かすほどの衝撃を受けたんです。当然、菅野邦彦という名を聞くのも初めてでした。そして、直ちにそのLP、「Mr. Heartache」を譲ってもらうべく店員の方に交渉しました。ところが、オーディオラボ会員向けの限定品ですので販売はしてません、との返事。ところが、私があまりにも未練たらたらねばるので、店員さんもとうとう根負けし売って下さったのです。たしか一万円だったと思います。その白黒写真のジャケットには、手書きで109と番号が書いてありました。同時に購入したデンマーク製のスピーカーを抱え、わくわくしながらアパートに戻ったのを昨日の事のように鮮明に憶えています。当時、所有していたバド・パウエルのLPは68枚、入手出来うる限りのものを収集していました。しかし、その夜、新たな決意をしたのです。「菅野邦彦」、この人のレコードはすべて集めようと。
そして、一週間後、再度、六本木へ出向き、同じ店員さんにお願いしたんです。「あのLP、あまりにも素晴らしいんで、もう一枚欲しいんです」。店員さんは、かなり呆れていましたが、私の熱意に打たれたのか、もう一枚譲って下さいました。つまり、「Mr. Heartache」を二枚所有したわけなんです。一枚は新品のまま保存しておくことにしました。

それから半年ぐらい経った頃だったでしょうか。当時住んでいた南青山のアパートの近くに「ロブロイ」というジャズクラブがあり、ある時、前を通ると、中から普通じゃないピアノが聞こえてきたんです。気が付くと、自分がいくら持ち合わせているか、まったく考えることなく店のドアを開けていました。ドアの目の前にアップライトピアノがあり、ピアニストがドアに背を向けるように、一心不乱に弾いています。これはきっと菅野さんだ、彼に違いない!私は彼のうしろに立ちすくんでいました。鍵盤の上をもの凄いスピードで両手のオクターブが右に左に翔んでいます。そして、カウンターに腰を下ろす前に、その顔を見て、菅野邦彦だと確信したわけなんです。カウンターの中には、何と私の部屋の向かいに住む方がバーテンダーをしていました。咄嗟にアパートに飛んでかえった私は、例のLPを脇に抱え「ロブロイ」に戻り、そして菅野さんにサインをいただいたのです。その後、「ロブロイ」のピアノがグランドピアノになり、熱い菅野ファンになっていた私は、「ロブロイ」で彼と親しくお話するようにもなっていました。さらに、六本木の防衛庁まえにあった「ネロビアンコ」や「ミスティー」にも、菅野さんの演奏を聴きに行くようになっていました。我が最愛のLPとなった「Mr. Heartache」によって、日本にもこんな凄いピアニストがいることを知ったのは、まことに僥倖であったと云わねばなりません。

その後、何年か経ち、海外に赴くことになった私は、すべてのLPコレクションを大阪の実家の地下室に保管することにし、日本をあとにしました。しかし、好事魔多し、なんと実家が出火し、すべてのLPが焼失してしまったのです。二枚の「Mr. Heartache」もです。しかも一枚はまったくの新品です。どれほど落胆したことでしょうか。

時が過ぎ、縁があって、十五年前に、このスコットランドの地に移住し、様々な活動を通して、多くの音楽ファンや、演奏家と知り合いました。こちらのジャズファンには、もちろん、「日本にはスガノという凄い天才がいるよ」と、機会があるごとに伝えた結果、九州ライブを初めとする彼のCDに、ジャズ好きは皆驚嘆することとなった次第です。「実は、最愛のLPは火事で焼失したんだ。残念でならない。もともと限定版だったので、再発される可能性も極めて少ない。でも録音を担当した彼の兄に直訴してみようかとは思っている」とも、折に触れ伝えておりました。そうこうしている内に、先日、ネット上で、「Mr. Heartache」に関する記述を拝見したわけなんです。これで、私が、いかに驚嘆したか、御理解していただけるかと思います。

「Mr. Heartache」は、焼失後三十年以上も追い求めてきた私にとって、忘れがたいピアノジャズの白眉であるばかりか、こちらの多くのジャズファンになんとしても聴かせたい、日本の天才の大傑作でもあります。私は地元のFM局に何度か出演したことがあり、ディレクターの友人もおります。近い将来、ジャズ番組の中で、天才スガノの音楽をオンエアさせたいとも考えております。どうか再発売の英断をしていただき、長年の願いを叶えてくださるよう、切にお願いする次第です。

第六章   Mr.Heartache

今回(2013年7月)Mr. Heartacheの復刻版CDを発売中であるが、復刻に際してオリジナルのレコードの制作当時の事情について菅野邦彦にインタビューし、CDのライナー・ノーツに掲載している。一部をご紹介する。

Mr. Heartacheは1972.07.17のピアントリオによる録音。メンバーは菅野邦彦(p)本田英造(b)植松良高(d)。制作、録音は邦彦の兄の菅野沖彦で、限定200枚の発売であった。菅野邦彦は手書きで一枚一枚にナンバリングをしたことを記憶している。

今回多くのファンの熱望にこたえて復刻盤のCD を制作することになったが、この機会に当時の事情を菅野邦彦にいろいろときいてみた。

(制作に至った事情)

1968年にFinger poppingというレコードをTAKTからだしたのですが、それがそこそこ売れた。当時は日本のJazzのレコードが売れるかどうかわからない状況でしたからね。そんな状況をふまえて高級志向の兄貴(菅野沖彦氏)が最高の録音で限定100枚を出そうということになった。

(実際の発売は限定200枚)

僕が200枚に増やしたのです。多くの人に聴いてもらいたいという僕の考えと、芸術至上主義の兄貴とは違うところがある。「邦彦のいい音を最高の録音で」という点は一致していたのですが。

ピアノはベーゼンドルファー。当時のベーゼンドルファーは繊細な音がだせた。つまりピアノフォルテがだせる。今のピアノはどこもかしこもフォルテピアノになりさがってしまった。ピアノのメーカーと演奏家の間がどんどん広がってしまったということです。この録音は今聴いてもいいですね。兄貴は自分の音を創ったと思う。

(メンバー決定のいきさつ)

僕の大尊敬するピアニストに大沢保朗さんがいますが、大沢さんはどんな曲でも即興でバリバリ弾いてしまうウィントン・ケリーをこえる最高のピアニストです。彼の跡を継ぐといえば藤井貞泰さんぐらいかな。僕は京都出身の大沢さんををひそかに京都のお公家さんにちなんで「麻呂さん」とよんでいたのですが、当時麻呂さんは本田さん、植松さんとトリオで銀座のお店で演奏していた。二人は大沢さんにスガチンのところで修行して来いと言われたらしく銀座のお店のはねたあと何回かネロビアンコに遊びにきて何曲か一緒に演奏しました。その時たまたまきていた兄貴がその演奏を聴いてこのトリオでレコーディングしようといいだした。

(録音までに何度もトリオで練習?)

いや、そんなことはしない。譜面なしのぶっつけですよ。録音当日、ホールのステージの幕をひいて、夏の暑いさかりだけれど、音が耳ざわりなので冷房機を止めた。曲は僕が選んだけれど、彼らが知らない曲が何曲もあったと思う。

そんな初めての曲を譜面なしでぶっつけ録音なんて今では信じられないでしょうが、お互いのハート、意図が瞬時にコミュニケートできて音楽となるんです。こんなことができる二人は神様ですよ。

最初の曲は、Linton Garner Blues。エロル ガーナーの兄の、これもピアニストのリントン ガーナーさんが当時来日していて毎晩のようにネロビアンコに遊びに来ていました。弟とは全く違うスタイルですが素晴らしいピアニストで、こんな風なブルースをよく弾いていました。この曲は彼にささげる僕のオリジナルです。

それにしても、ベースのスピード感がすごいでしょう。世界でNo.1ですね。本田英造に較べればロン・カーターなんて目じゃないですね。

松(植松良高さん)とはこの後もアメリカで一緒だったり、彼はまたマイアミその他で大活躍したんだけれど、残念なことに2008年に癌で亡くなってしまった。彼とのレコードがこれ一枚とは痛恨の極みですが「植松良高の快演」が一枚でも残ってよかった。

(中略)

僕は70枚ものレコードをだしましたが、「やった」と自信があるのはたった二小節が二回ですね。何万小節のなかでたった二小節が二曲。それがby the time の前半の二小節とこのLittle girl blueのなかの、まんなかあたりの二小節です。

(後略)

 

第七章 少年時代

菅野邦彦は6人の兄弟姉妹の次男。上に長男、長姉がいる。長男の菅野沖彦氏は、ウィキペディアによれば、「朝日ソノラマ編集長、フリーの録音制作家を経て、オーディオラボを創立。1971年、オーディオラボ・レコードを発売。以後オーディオ評論家として日本のハイエンドオーディオ文化を半世紀以上育ててきている重鎮である。氏の録音技術は高く評価され、優秀録音盤が数多い。」とあるが、沖彦氏は一方大変な運動神経の持ち主で、子供のころから水泳、野球に秀いで、のちには車に熱中しスピード狂こうじて国際レーサーの免許を取るに至る。

一方邦彦は好奇心と探求心旺盛な少年で、不思議に思うものはなんでも分解してしまうので、家族からは「壊し屋」として常に要注意であった。壊したものには、電気がつくので不思議に思いまっぷたつに切った乾電池、英国製ビンラン時計(目覚まし時計)、ライオネルの電気機関車のモーター等々。

邦彦は(小学6年の時か)ピアノが家に着いた時のことをよく覚えている。リンゴ箱二つにぎっしりつまった百円札を父と兄とが数えていた。当時は百円札が一番の高額紙幣であった。(もちろん邦彦は部屋に入れてもらえず外から覗き見していたのである。)当然、ピアノには鍵がかけられ、「壊し屋」の邦彦は触れることを禁じられた。

ところで、どうしてその時代に高価なピアノを購入したのか。それは沖彦氏がおねだりしたからである。どうして沖彦氏はおねだりをしたのか。

当時、菅野一家は西荻窪に住んでいたが、ご近所の洋館に東京女子大の講師でカナダ大使夫人の名ピアニストがおられ彼女は自宅で何十人もの女学生にピアノを教えておられた。兄弟して先生宅に出入りする女学生を応接間の二階から羨望のまなざしで眺めていたのである。そんな女学生たちの仲間に入りたかったのが兄の動機ではと邦彦は推察?している。

菅野家は日本家屋であったが、ご近所の街には洋館がならび、異国情緒あふれるロマンティックな街並みであったらしい。それもその筈、その街並みにはフランク・ロイド・ライト氏の設計による洋館が立ち並んでいた。ライト氏は著名なアメリカの設計家で旧帝国ホテルを設計したことや缶ピースのデザイン等でも知られている。日本在住時代にこずかい稼ぎか荻窪、西荻、吉祥寺一帯の個人住宅を設計したらしい。

ピアノの音が好きであった邦彦は自宅のピアノに触れることもかなわず、学校の帰りに江古田に住む同級の山村氏宅にしばしば立ち寄った。彼の姉ぎみの武蔵野音大の大学生の声楽家がジャズを弾いていた。邦彦はいまでも彼女のボーイフレンドの「児玉様」の弾くバンブルブギーの音を覚えているようだ。どうやら山村氏宅でジャズに親しみ初めてピアノ遊びも楽しんだらしい。

一方、兄の沖彦氏は熱心にピアノを習得していたが、常に「乙女の祈り」ばかり弾くので家では「祈り師」とよばれていた。邦彦によればかなりのいいピアノに上達したが、初めてから2年半のある日、「こんなデコボコの楽器をひきこなせるわけがない。ピアノを分解するなり、壊すなり好きにしていい」とピアノの鍵を邦彦に投げてよこした。邦彦はそれから兄と同様、カナダ大使夫人の根本百合子氏に師事した。彼は根本氏の豊かで美しい音色と音楽性に感服し、よき師につけた幸運を今でも感謝している。彼女のもとで邦彦は 2年半クラシックのピアノに打ち込み、とりわけショパンの曲を数多く弾いていたらしいが、2年半後、兄の沖彦氏と同じ結論に至る。「こんなデコボコの楽器をいくら弾きこなしてもいい音が出るはずがない。将来この楽器でプロになったら気が狂うだろう。まあ、遊び程度にしておくか。」その頃、邦彦はアイスホッケーに熱中しはじめていたのである。

邦彦の幾多の才能のひとつに、素敵だと思った曲はすぐに覚えて弾きこなしてしまうという、筆者には神業としか思えない能力があるが、どうやらその業は生来のものであったらしい。アイススケート場で聴いたタンゴ、ラテン系の音楽、ジャズを次々に覚えてしまい、当時通学していた学習院の高等部が引っ越した目白の音楽室のピアノで級友たちにせがまれて弾いていた。

そんなある日、3年上の学年の先輩たち(皇太子殿下―現天皇陛下の学年)がお茶の水の山の上ホテルでダンスパーティをひらいたというニュースが流れてきた。すると腕白ぞろいの同級生たちが、俺たちもやろう、ただ先輩たちはレコードで踊ったが俺たちは生の演奏だ、スガチンピアノをたのむとあいなった。当時、山の上ホテルの最上階には、日本の音楽界を育てたといわれるピアニスト、指揮者のレオニード・クロイツアーが滞在していて厳選されたお弟子さんにピアノを教えていた。最上階にはグランドピアノ、アップライトのピアノ数台があって、そのうちの1台を一晩借りる交渉を山の上ホテルの重役の息子の級友がまかされた。

まもなく彼から電話があって、先生がピアノの腕をみてみたいとのこと。邦彦は、乱暴に弾かれてピアノがこわれてはかなわんと心配されたのかと、面接?におもむいた。アップライトのピアノで邦彦はタンゴ、ルンバ、フォクストロットなどダンス音楽を弾いた。にこやかな顔で聴いていた大先生はなにかクラシックもとリクエストをだした。邦彦は、ショパンの数曲とベートーベンの小品、エコセーズを弾いたと記憶している。先生は一晩ピアノを貸し出すことを快諾した。

それから級友たちはパー券を作成、学習院の女子部、川村学園女子の学生たちに売りまくり無事完売した。当時、学生のパー券販売には税務署が目を光らせているとの話がありビクビクしながらの販売だったようだ。

パーティ当日盛会の部屋の片隅の椅子に大先生をみとめ邦彦は驚愕する。先生は椅子に座り続け最後まで演奏を楽しんだらしい。翌朝級友からの電話で先生が邦彦を弟子にとりたいとのこと。楽器としてのピアノに疑問を感じていたせいか、アイスホッケーに心が奪われていたせいか、邦彦は丁寧にお断りした。- 電話口でベローと舌を出したが。(1951年ごろ、加山雄三氏のご母堂が息子に教えてほしいと先生にお願いしたが断られたとの話がある。 雄三氏は別の女性教師のもとでピアノを習得、のちに弾厚作の名でピアノ協奏曲を作曲する。)

他方、アイスホッケーの腕はめきめきと上達し、高校生ながら大学のアイスホッケー部の練習に参加していたが、高等部にもとアイスホッケー部を設立し、キャプテンに就任するにいたる。当時、近々アイスホッケーのプロリーグが出来、アイスホッケー場はミンクのコートで着飾ったご婦人であふれる一大社交場と化し、野球界のヒーローのジョー・ディマジオ以上のギャラがとれるという噂があり、それを信じた邦彦はプロのアイスホッケー選手を夢見ていたらしい。

部長先生は大学のアイスホッケー部の部長でもあり、邦彦の体育の担任でもあった鈴木氏であった。鈴木氏は、乃木希典大将の直系で、生粋の国粋主義者、愛国主義者であった。体育の時間には、校庭に円を描き、(偽)焼夷弾を投げる訓練をさせられた。同期の義宮(常陸宮殿下)も投擲されたそうだ。当時はGHQ占領下。よく巣鴨送りにならなかったものだと思う。

そのころはアイススケート場も少なく、また料金も高額で練習場を確保するにも苦労が絶えなかったらしい。冬には自然の氷を求めて松原湖で合宿を行った。湖畔沿いの氷をととのえて(それでもボコボコしていたが)リンク?を作り、そこを何周もすべるのである。鈴木先生はアイスホッケーについては詳しくはなかったそうだが、編み上げのスケート靴で陣頭指揮をとられた。邦彦には、君は部を立ち上げたキャプテンだから先頭に立てとことさら厳しかった。10周のノルマを滑り終えると、「はいご苦労さん、もう1周。」頑張ってなんとか滑り終えると、「ご苦労さん、もう1周。」と際限がない。邦彦は死ぬかもしれないと思ったそうだ。そのせいか、心臓を弱めて、祖母からすすめられた「救心」を練習、試合の時にはポケットにしのばせていた。

過酷な練習で学童連から「殺してやりたい」まで恐れられていた鈴木先生がある日「おかま」に落ちた。(「おかま」とは、氷の下の自然の暖い湧き水で氷がとけて穴があくことを言うらしい。)学童連は一瞬喝采のときのこえをあげたが結局ほってはおけず、何足もの網上げ靴の紐で4,5本のスティックをつなぎあわせ、みんなして氷で傷だらけの先生を引き上げた。

あと、恐ろしい記憶は、立命館大学との対抗戦での「替え玉事件」である。場所は京都アリーナ。高校生の邦彦は大学1年生として「替え玉」で出場。試合は負けたが、戦後の戦勝チームの立命館の先生の訓示で、名指しはされなかったものの、スポーツマン精神の欠如、両校の将来の友好への危惧を指摘され、震えがとまらなかったそうである。

結局、プロのアイスホッケーリーグは結成されず、邦彦はホッケー選手の道を断念する。邦彦ピアノに続いて2度目の挫折である。

 

第八章 大学時代

大学に進学したものの、将来については、アイスホッケーの途はたたれ、黒鍵白鍵のデコボコな楽器(ピアノ)には疑義をもち、つまり将来へのみとうしもたたず、菅野は憂鬱だったようだ。他方、ピアノの音そのものは大好きだった菅野の腕前は日に日に上達していき、学習院の同級生の仲間でグループを結成する。メンバーは、水野簾平氏(ドラムスとヴーカル、後の五洋建設社長)、伊地知寛氏(ビブラホン)間宮聡夫氏(マネージャー役)で、すぐあとで広瀬宣保氏(クラリネット、後の作家、ペンネーム醍醐麻沙夫)が加わった。グループ連は毎日のようにアップライトのピアノがある新宿の「ミンクス」に出入りし遊んでいた。勝新太郎氏とはじめて出会ったのは「ミンクス」の帰り、最終電車のころの新宿駅である。

ある日グループ連がいないときに「ミンクス」にひげを生やした黒人が来店し素晴らしいピアノを弾いた聞き、名前は?と尋ねるとハンプトン・ホースだと言う。もう一度来店したら必ず連絡をと頼んだが再来店の連絡はなかった。菅野がハンプトン・ホースと出会うのはそれから何十年も先のヒルトンホテルの李白バーである。杉野喜知郎氏とバトルでピアノを弾いていたが、ある日、杉野氏が「スガチン、ハンプトン・ホースがきている」とささやいた。しかし、最初は髭がないので別人だと思ったそうだ。ハンプトン・ホースは大の親日家で、大好きな日本を奥方に見せたいと思い夫妻で来日、ヒルトンに投宿していたらしい。菅野のピアノを喜んだ彼は自身でも「スプリング イズ ヒア」を弾き、意気投合した二人は飯倉片町の「射手座」を訪ね、ビバップの第一人者の大野肇のピアノを聴いた。それ以来菅野は夫妻と親交を重ね、各所を案内、同行することになる。

同じく新宿の歌舞伎町に1953年第2次の「新宿劇場」がオープンした。菅野は大好きな西部劇「大平原」をそこでみたのではないかとおもっている。「新宿劇場」では映画の上映の合間にショウ―タイムがあった。ある日、菅野は看板に「司会 トニー谷、実演 秋吉敏子トリオ」をみとめ入館する。菅野はジャズの魅力をわかりやすく伝えるトニー谷を高く評価しており、彼の日本ジャズ界に対する貢献を再認識すべきだと思っている。

また、新宿には武蔵野館の隣に「オペラハウス」というクラブがあり、「トニー谷の司会、八木正夫のレッドハットボーイズ」が出演したりしていた。ある日、慶應の学生バンド「リズムキャンドル」が出ていた時に菅野はそこで1曲ピアノを弾いたが、そのあと「次回からはレギュラーで頼む」とささやかれた。主力メンバーは、山田キンべー(アルト)、柴田正彦(テナー)、織田(テナー)、杉原淳(テナー)、根市タカオ(ベース、後の大橋巨泉のサラブレッズのベーシスト)。

当時、一般社会では、慶應の学生バンド「クール・ノーツ」が人気を博していた。テナーの西条幸之介がリーダーで三保敬太郎がピアノを弾いていた慶應の同期の仲間のバンドである。そのころの人気NO.1バンドは、ジョージ川口のビッグフォー(中村八大、小野満、松本英彦)でギャラもダントツの第一位であった。差はあるとはいえ人気第二位がアマテュアバンドの「クール・ノーツ」である。他方、三年下の慶應同期のバンドには先述の「リズムキャンドル」があって、1曲のピアノ演奏で認められた菅野はそのバンドに加入する。田辺氏(田辺靖男の兄)がマネージメントしていたバンドである。ギャラはなかったが、宿つき、食事つきで菅野はそのバンドで6大学ジャズコンサートの一環の慶應代表バンドの一員として、沼津、姫路、岡山、下関、別府、松江等全国を旅行する。沼津には当時全国初の公会堂が完成していた。また、各地には慶應のOBがいて、コンサート会場に加えて、演奏できるクラブや打ち上げの場を用意してくれた。別府のクラブでは若い大学生をむかえてホステス連がキャーキャーと騒いで大もてだった。しかし困ったこともあった。松江での芸者も上げてくれた打ち上げの宴席でとなりに座った慶應のOB(当時の島根県知事)から「君の主任教授は?」ときかれ、偽慶應生の菅野はトイレに根市氏を呼び出し情報を入手、何とか事なきを得た。また、「リズムキャンドル」は産経ホールのパーティ会場にもしばしばよばれて演奏したらしい。

その頃、学習院のグループ仲間の広瀬氏は横浜の「USクラブ」でクラリネットを吹いていた。彼は大変な遊び人で当時「USクラブ」のNO.1のホステスと付き合い、横浜の豪邸に住んでいたらしい。「USクラブ」のメインのお客は進駐軍の連中で、なかにはプロのジャズメンも大勢いたようだ。その広瀬氏からすすめられ菅野は横浜の「クラブ シマ」でピアノを弾くようになる。「クラブ シマ」では、プロレスの力道山の相手方として知られるプロレスラー遠藤も常連で、彼はとりわけ菅野を気に入りいろいろ世話をやいたらしい。遠藤は女の子のみならずミュージシャンにも多額のチップをはずむ豪胆な性格であった。菅野がギャラをえた最初のお店が「クラブ シマ」である。

その後、有楽町と銀座4丁目の間、今のソニービルのむかいの「バッカスクラブ」でもバイトのピアノを弾いた。進駐軍のオフィサーしかはいれない高級クラブであった。そこで遊びにきていた中村八大氏と早稲田で同級のベースの橋本修氏に出会う。ドラムの古山氏、寺田氏、佐野のヨッチンに出会ったのも「バッカスクラブ」である。そして、橋本修の仲間と菅野は、新宿のナイトクラブ「キュービトン」で「橋本修とボヘミアンズ」の名前で出演する。修やんが連れてきた明治の大学生のリチャードパインも加わった。ドラムセットのないお店にドラムセットを持ち込み、ドラマーがたちかわり、たちかわり、たたいて、ラテン系の音楽、ルンバ、マンボ、ジャズをやったそうだ。

当時はまた、「ひろいや」という仕事があった。依頼をうけた「ひろいや」がメンバーをひろいあつめ、臨時のバンドを編成して依頼主のもとで演奏するのである。大晦日の日、座間の空軍キャンプの副司令官(マッカーサーの下の第2位)からオフィサーの年越しパーティの仕事を受けた「ひろいや」の神谷氏(ドラムス)が当日集めたメンバーは、プロになったアルト奏者のリチャード・パイン氏、学習院の2年下の徳川義正氏、そして菅野であった。菅野と徳川氏は学習院のバンド仲間で、そのバンドには素晴らしいアルトの音色の安田氏もいた。徳川氏は尾張の徳川宗春公の直系で(紀州出身の8代将軍吉宗は正統でないと認識している)伝わる家康公の面影を彷彿させる風貌の持ち主である。(第1章エロル・ガーナーにも、登場している。)菅野は彼の上質で品格ある唄ごころのベースを世界一と評価していて、しばらくベースから遠ざかっている彼の復帰を切望している。

到着したキャンプのオフィサーズクラブの会場で、当日の仕事はコンボによる年忘れパーティの演奏だが、最後は(年明け新年の仕事は)日本の伝統芸能の二人三番叟(ニニンサンバンソウ)の伴奏だと知らされ驚く。そして勧進帳のような長い紙を折りたたんだ伝統芸特有の(フルバンド用?の)譜面をわたされる。(洋楽の演奏者と伝統芸の演者との実に奇妙な組み合わせを考えたのは米人ならではのものか?)事前の打ち合わせの席で、菅野は、三番叟を演じる老年の夫婦に、譜面のような多人数の演奏はコンボでは無理なので、なんとかバンドのメンバーで和の雰囲気を醸し出すからとつたえ、老夫婦の了解をえた。(その時リーダーのドラムスの神谷氏はトイレで席を外しその話を聞いていなかった。)

数時間に及ぶバンドの大晦日の演奏は大盛況で、戦勝気分の残る空軍将校、夫人、令嬢たちが大うかれでバンドの近くまで来て踊りくるっていた。そして、新年恒例の「蛍の光」を演奏した。(日本の卒業式、パチンコ屋の閉店とは違って、欧米では「蛍の光」を歌って、Happy New Yearと叫ぶのが定番である。) そして、いよいよ新年の厳粛な雰囲気のもと、日本の伝統芸能の三番叟がはじまった。聴衆はしんとして舞台を見つめている。しかし、ドラムスの音がするが他からは何の音も聞こえない。聴衆は何がおこるのかと緊張で身構え静寂が支配する。ドラムスの神谷氏がスティックをふりあげ、譜面の演奏する目印の「A!」「A’!」「B!」と叫ぶが音は出ない。ようやく聴衆はドラムス以外は譜面が読めないのではないかと思い始める。一方、三番叟の老夫婦はなんとか演じていたものの、困り果てたのか、こともあろうにお客に尻を向けて背をかがめたままでそろそろ、そろそろと菅野に近づき、「ピアノさん、これでは踊れないヨ」と囁く。菅野は、みっともないからあっちへいけ、客先をむけとばかりに手で追い払う。神谷氏の「C!」しばらくして「D!」そして「E!」の再三の声にも音はしない。まるでチャップリンの喜劇を見ているかの情景に聴衆はもはや笑いをこらえるのに必死である。ついに菅野が「話が違う」とばかりに勧進帳のような譜面を床一面に投げはなつに及んでこの世とも思われない大爆笑。最高のハプニングの出現となった。

しかし、菅野は演奏に加えてこのハプニングも副司令官に気に入られ、トニー・スコット(後述)とともに何回もキャンプを訪れることになる。

数年後の東京オリンピックのとき東京の街は夜間遊興禁止であった。そんな環境下、新宿と四谷の間に48(ヨンパチ)というもぐりのクラブがあった。利にさとい東大卒の男が地元のヤ印組織を使って運営していたらしい。粗末な施設(巨大な天井の上に雨水がたまっていて、穴をあけて水を落とそうと相談していた)をチャチな映画のセットのようにベニヤ板で何重にも迷路のようにとりかこみ、方々ののぞき穴からアベックにばけて入ろうとする警官をチェックしていた。そのクラブで、プロになっていた菅野は連夜のように、三橋兄弟(ベースの兄とテナーの弟)、加藤氏(ドラムス)、福地氏(ギター)、笠井ケメコ氏(ヴォーカル)達とバンドを組んで演奏した。

ある夜、副司令官から菅野は「48」での副司令官の誕生パーティの演奏を頼まれる。着飾った米軍のオフィサー、その婦人連が百数十名参加してパーティは盛会裡にすすんだ。が、しかし、まさに、「ハッピーバースデイトゥユー」を弾きはじめた瞬間天井が抜け落ち大音響とともに巨大な水柱に全員が水浸しとなった。しかし、戦勝国のおおらかな?米人達は笑い転げていたそうだ。クラブは洗濯代等の弁償を申し出たが副司令官は受けつけなかった。

当時夜の「遊び場」がなかった東京で「48」には多くの有名人、芸能人が出入りしていた。(草笛光子氏、ピアノの山崎正氏、久里千春氏、北原謙治氏、宍戸錠氏、夏木陽介氏、式場壮吉氏、ミッキーカーチス氏、浅岡氏等々)山崎氏は、後年ナベプロ社長となる渡辺晋とシックスジョーズの一員であり、「48」で知り合った久里氏と結婚する。また、「48」にはカーレーサーはじめ多くの人が高級スポーツカーで乗り付けていて、菅野もそれに影響をうけたのか後に「サンダーバード」を手に入れる。今から思えば、ジャズとカーレース隆盛の夜明けのような時代であった。(ミッキーカーチスは英国車のモーガン、宍戸錠は黒塗りのTR4,夏木陽介は黒塗りのサンダーバード55に乗っていた。菅野は後に坂本九から薄いピンク色のサンダーバード57年を手にいれる。ちなみに(「48」ではないが)山下敬二郎は丸窓のあいたツートンカラーでうしろにタイヤを積んだサンダーバード56、平尾正晃はオースティンヒーレー、式場壮吉はACコブラ、)

しかし、もぐりの「48」にも手が入り菅野は逮捕される。所轄署で「48」での演奏中の写真をみせられ、3日3晩拘留されることになる。菅野は前科一犯だと自嘲しているが、次のオリンピックの際には、ばかげた夜間遊興禁止の措置がなされないことを願っている。

偽慶應生として各地で演奏した後、菅野と根市の二人は請われて、「吉屋潤とクールキャッツ」に加わり、ひと夏横須賀の「トレードウィンド」で演奏する。テナーの吉屋潤が率いる「クールキャッツ」はバリバリのモダンジャズ、ビバップのバンドで、ここで菅野はジャズピアニストとしての腕をみがきあげる。吉屋氏は面倒見のよいリーダーで多くのジャズメンが世話になったようだ。韓国人の吉屋氏は後年母国に戻り韓国音楽界の重鎮になったが、数十年を経た韓国オリンピックの時、菅野は彼からオリンピックのイベント出演の依頼をうけ、スケジュールをあけて連絡を待ち受けていたが、連絡はなく、後に彼の突然の死去を知って慟哭した。

「クールキャッツ」で出会ったトランぺッターがながきにわたって厚誼を続けることになる渡辺正典氏である。ディキシーの大御所として高名な渡辺氏は、巨人軍、数多くの巨人の選手たちの応援歌の作曲者としても知られているが、(東京ドームの前の後楽園球場で応援のペットを吹いていた彼の勇姿を覚えている巨人ファンも多いと思う。)その頃はモダンジャズトランぺッターであった。数年前、代官山の「レザール」での菅野のライブにゲスト出演して演奏した「バーニーズテューン」を筆者は昨日のことのように覚えている。菅野の叔父の菅野圭介画伯の横須賀美術館での大回顧展では菅野とのデュオでオープニングセレモニーを彩った。その彼も昨年(2015年)12月に世を去った。

菅野は大学で5年をすごすことになるが卒業前には恋をしていたようである。多くを語らない菅野から筆者がききだしたところでは、お相手は田園調布のお嬢様で、どうやら菅野のピアノに惚れていたらしい。

ところで方々のバンドでピアノを弾き、その世界では認められてはいたものの、卒業を控え、白鍵、黒鍵の凸凹な楽器には根源的な疑義をもち、またピアニストでは食える世ではない(好きな女性を扶養できない)と思っていた菅野は、プロのピアニストの道にはすすめず、サラリーマンになろうと就職を決意する。

第九章 就職、ニコラス、トニー・スコットのころ

就職を決意した菅野は、幸い父の親友の山川氏が専務をつとめる大手の宝飾材の会社に就職をすることが出来た。最初の1年は工場勤務であった。その工場の近くに、4畳半もない小さな部屋にアップライトのピアノがあるピアノ練習所があって、昼休みには工員30人以上がチョウすしずめになって(ピアノに何人もが覆いかぶさるようになっても)菅野にピアノをせがんだ。

初任給支給の日、菅野は全額を使うつもりで、お嬢様との待ち合わせの国鉄(現JR)の四谷駅に急いだ。3時間待っても彼女は現れず菅野は恋の終焉を知らされる。筆者が思うには、彼女がほれた菅野はピアニストであり、サラリーマンに就職したことに失望したのではなかろうか。20余年をへて彼女はピアニスト菅野の前に再登場するのである。

1年の工場勤務を終えて菅野は神田の本社の経理課に配属になる。専務の紹介で入社した大卒の菅野は幹部候補生としての扱いを受けた。

宝飾材を扱っているせいもあって(盗難を恐れて)毎晩二人が当直の任につくのだが、幹部候補生の菅野には頻繁にその役がまわってきた。そんな当直当番の夜には、菅野は同僚にことわって外出、方々のクラブでジャズを楽しんでいたらしい。深夜帰社すると、当直の任に当たりながら、椅子を並べた簡易ソファで仮眠をとるのである。

昼間の勤務の菅野の下には10数名の女子社員がいて静かに(黙々と)算盤をはじいている。しかし一旦菅野がトイレ等で席を外すとあみだくじがはじまりキャーキャーと騒々しい。そして菅野の戻る足音をききつけると、人声はぴたりと止み、部屋中算盤の音だけに満たされる。また菅野は上司からテストがあるので貸借対照表を丸暗記するようにと言われていた。経理の基礎知識が全くない菅野には、勘定の右左や、右と左が同額になる根拠が全く理解できなかった。当然のようにテストには受からなかった。ただ上司からは、一回目は落ちて二回目にパスするのが普通だから頑張れと激励を受けた。その頃から菅野はサラリーマンには向かないと悟っていたらしい。二回目のテストに落ちて菅野は辞表を出すことになる。

ところで、サラリーマンになっても、菅野は頻繁にライブハウス、クラブには出入りしていたらしい。その頃連れだって遊んでいた年来の親友が式場壮吉氏である。

式場氏は、日本のレーシングドライバーの草分けとして有名であり、(第1回日本グランプリではC-Vクラスでコロナで優勝、第2回GPではT-V1クラスでクラウンで3位、GT-Ⅱクラスではポルシェ・904で優勝)、後年、欧陽菲菲と再婚したことでも知られているが、大のジャズファンでもあり、ヴォーカリストでもあった。

1960年のころは戦後の復興がスピードをまし、洋食店が次々とオープンした時代である。ある日、式場氏は菅野を日本で初めてピザを食わせるレストラン「アントニオ」に連れて行った。次に式場氏が連れていってくれたイタリアレストランが「ニコラス」と飯倉片町の「キャンティ」である。その親友「壮ちゃん」も本年(2016年)5月に世を去った。

「キャンティ」は、川添浩史、梶子夫妻が1960年4月に開店した本格的イタリアンレストランで、深夜3時まで営業するお店に、芸能人、放送関係者、政財界人、外国人が年齢、性別をとわず集まる有名店になった。(長男の象郎、次男の光郎―2代目オーナーは前妻の著名なピアニストの原智恵子との間の子である。)

菅野は「ニコラス」での最初の日に、ニューヨークカットのステーキを食べたことを覚えているが、その後連日「ニコラス」に学生時代からの仲間(「フクロウ族」或いは「野獣会」と自称していた)と訪れ、ピアノを弾くようになった。仲間とは、石津祐介氏、コロンビア映画の山田氏(山田三郎太氏の子息)、田辺氏(NHKアナウンサー田辺正晴氏の次男、田辺靖男氏の兄)、住友の堀田氏等々で、彼等は、高校の時から、夏には同窓の友人の早瀬氏の所有する大きなヨットを湘南で乗り回していた。また冬には銀座のおしゃれな喫茶店「トレアドール」でとぐろをまいていた。その頃、石原慎太郎、裕次郎の兄弟から仲間に入れてほしいとの打診があったが、田辺氏が「物書きはちょっと」とお断りしたらしい。菅野は、後年大ヒットした太陽族(慎太郎氏の「太陽の季節」)のモデルは俺たちではと思っている。

「ニコラス」のグランドピアノはタッチがとても重く“ひどい?”ピアノで有名で、誰も弾かなかったが、菅野が弾きこなすのを見て、ママは「いつでも好きな時に弾いて。ギャラは出せないけれど何でも好きなものを食べて」と言った。

ある夜、「ニコラス」で菅野がピアノを弾いていた時、女優のシャーリー・マクレーンが来店した。彼女は、映画のプロモーションのため、プロデューサーのスティーブ・パーカーと来日していた。菅野のピアノを気に入った彼女は3晩連続して来店し、ピアノの脇に座り、微笑をうかべながら聴き入り数々のリクエストをだした。菅野はリクエストに応えながら、彼女の顔面をおおう金色の産毛?をまじかに見たことを覚えている。あまりに親密そうな二人を見て、「ニコラス」のママは、後方に座るスティーブがいるのだから手を出しては駄目よと忠告した。(菅野は、二人が男女の仲だと気づいていたから手をだすわけがないと筆者に語ったが、記録によれば二人はすでに1959年に結婚している。)

その頃トニー・スコットがアメリカの文化使節として来日した。(在日1959-1965)当時のトニーは、ベニー・グッドマン、バディ・デフランコ等をおさえて人気第一位のジャズクラリネット奏者である。商社マンからジャズ評論家に転身しようとしていた瀬川昌久氏が自宅をトニーの宿泊所として提供していた。菅野はトニーとの出会いを鮮明に覚えている。

その夜は雨であった。窓をとうした激しい雨音を背にして菅野は「ニコラス」で弾いていたが、急に雨が上がった。菅野は I remember April を弾きはじめた。その時「ニコラス」の近くの高級中華料理店「ゴールデンゲート」?で食事を終えたトニーは雨があがったのを知り外に出ると路上でクラリネットをとりだし、瀬川氏に教えられたのか「ニコラス」めざして路上でアップテンポの曲を吹きはじめた。

菅野はどんどん近づいてくるクラの音に気づいていたが、まるで西部劇のガンマンが酒場のドアを蹴破るかのように片足でドアをけあげて「ニコラス」に入ってきたトニーに驚愕した。トニーはただちに I remember April に和した。

その日以来、トニーは菅野を連れ歩くようになる。トニー・スコットの文化使節としての仕事のひとつは各地の米軍キャンプへの音楽慰問であり、菅野も前述の座間の空軍キャンプをはじめ、方々のキャンプ地で演奏するようになった。また、川添氏や瀬川氏のつてによって、鹿鳴館のような旧華族の数々の邸宅にも出向いて演奏した。当時のメンバーは、石井たけし(ドラムス)、タニヤン(谷崎氏、ベース)で、四人で一年以上演奏を続けた。さらにまた同時に、トニーの発案で、毎週日曜の昼間に新宿の「スリースター」でジャムセッションをやるようになった。座間の米軍の空軍のキャンプで見出した、日野皓正、元彦兄弟を「スリースター」でデビューさせたのもトニーと菅野である。ベースの鈴木勲、ドラムスのジョージ大塚とも「スリースター」で知り合った。

トニーはジュリアード出身、民族音楽専攻で、東洋の仏教、ヨガにも多大の関心を持つ親日家であり、バークレイの教授でもあった。菅野は多大の影響を受けている。トニーもまた菅野の才能を高く評価してバークレイへの留学を薦めるべく菅野の自宅をおとずれ、菅野の父君にも面談する。旅費とこずかい以外は奨学金でまかなえるようにするからと薦めるトニーのかたわらで「ジャズは学校で学ぶものではない」と菅野はお断りをする。トニーもそれもそうだと納得したようだ。

菅野とトニーは日本の映画にも三本出演している。ひとつは市川崑監督で、菅野は監督との打ち合わせのため何度も鎌倉まで出向いた。(1964年封切の「勝負は夜つけろ」主演は田宮二郎と久保菜穂子、音楽は菅野邦彦)他の一本は番匠義彰監督、宮沢泰音楽の松竹の歌謡映画「ウナ・セラ・ディ東京」であり、もう一本は瀬川昌治(瀬川昌久氏の弟)監督の東映映画である。

トニーは菅野に加えて「スリースター」で知り合った鈴木勲とジョージ大塚の4人でカルテットを結成、そのメンバーで数回演奏をするが、鈴木のギャラへの不満に嫌気がさしたのか、当時付き合っていた中国人の娘に惹かれたのか、バンドを解散し中国娘と中国へと旅立つ。菅野はトニーと合計2年演奏を共にしたことになる。菅野がトニーと再会するのは後年ニューヨークである。

第十章 トニー・スコットの頃をもうすこし

 話をすすめるにあたって、渡辺晋とナベプロについてふれておきたい。ウィキペディアによると、渡辺晋は

「早稲田大学在学中の1951年、松本英彦(テナーサックス)、中村八大(ピアノ)、南広(ドラム)らと『渡辺晋とシックス・ジョー』を結成。渡辺自身当初音楽はど素人であったが、日本銀行に勤務していた実父が公職追放に遭い学費が払えなくなり、月謝や生活費を稼ぐために大学の先輩の薦めでベースを始める。リーダーとしてベースを担当して人気を集めた。(中略) やがてジャズミュージシャンの収入の不安定さや仕事のきつさ、福利厚生の薄さ等を目の当たりにしたことなどからプロダクション経営を考え始め、1955年4月、妻・美佐、松下治夫とともに渡辺プロダクションを設立。当時、芸能人の地方公演はそれぞれの土地の興行師が実権を握り、不明朗なことが少なくなく、それをタレントを抱えた自分のプロダクションの手で行い、利益と権利を確保しようという狙いがあった。それまではレコード会社の専属抱えだった歌手・作詞家・作曲家を渡辺プロの傘下に集結させ、芸能界初の月給制を導入。さらにこれまでレコード会社で行われていた原盤制作を系列の渡辺音楽出版の手で作らせ、プロダクションに莫大な利益をもたらすようにした。こうして巨大化した渡辺プロはナベプロ帝国と呼ばれ、渡辺夫妻は芸能界のドンとして君臨するようになった。」

シックス・ジョーのメンバーの松本英彦、中村八大は1953年ジョージ川口のビッグフォーの結成に小野満とともに参加し、一世を風靡する。そのことは、菅野の学生時代、偽慶大生として「リズムキャンドル」で演奏していた項でふれた。

一方、ジャズバンドとは別に、より大衆受けする「お笑いバンド」「漫才バンド」があった。その旗頭が1955年結成のハナ肇とクレイジーキャッツであり一方の雄がエディ岩田とポークチャップであった。

話はさかのぼるが、まだ学生のころ、菅野はポークチャップの名ピアニストの近藤氏に頼まれ、代打として銀座のグランドキャバレーに3晩出演する。当時はグランドキャバレー全盛時代。銀座3丁目界隈に数百人収容できるグランドキャバレーが立ち並んでいた。その後大阪の北野劇場での中田ダイマル・ラケットの一か月におよぶ昼夜のショーにもトラ(エキストラ、代打)として参加する。ショーは漫才あり、寸劇あり、歌、踊り、音楽、ラインダンスありのバラエティに富んだもので、後のテレビ時代の2大バラエティ番組、「夢で逢いましょう」「シャボン玉ホリデイ」の原型といえるかもしれない。その舞台には、ダイマル・ラケット、楠トシエ、元宝塚の大スターで歌手の緋桜陽子、藤田まことらが参加していた。藤田まことは司会業から俳優に転身し、ダイマル・ラケット劇団に入団しての初舞台であったらしい。寸劇のひとつの例をあげれば、舞台に藤田が立っていると、菅野のピアノから何やら恐ろしい響きがなりはじめる。それにあわせて、舞台の中央のせりから、ポークチャップのベーシストの世志凡太扮するフランケンシュタインが立ちあらわれ、藤田まことが恐怖で倒れるというもの。大うけだったようだ。菅野の記憶によれば、藤田も1,2曲歌ったらしい。

1か月の公演を終えて東京に戻ったポークチャップのエディ岩田は銀座のグランドキャバレーの控室で、漫才バンドからモダンジャズバンドへの転身を発表する。

よほど菅野のピアノにほれこんだのか、当時はリスクの高かったモダンジャズへの道をえらんだのである。結局、エディ岩田と菅野だけが残り、鈴木勲(べース)、リチャード・パイン(アルト)、伊崎(ギター)、ジョーヤ・増渕(コンガ)、岡本壮一(ヴォーカル)を加えて新しいポークチャップが結成される。

半月後には、新しいポークチャップは横浜の馬車道の「ナイトアンドデイ」に連夜出演する。岡本壮一はベリー・エクスタインばりの唄声で、井上良(女優早見優の父)と並ぶ男性ジャズ歌手の双璧である。ジョーヤ・増渕は東京キューバンボーイズからきたNO.1のコンガプレイヤーで、「マンテカ」「サンバクマーナ」「クンバンチェロ」などのコンガが活躍する曲、それに、菅野のオリジナル、岡本のスタンダードの歌等々を演奏した。日本で初のジャズのライブ放送もこのバンドである。菅野のオリジナルと「ポンシアナ」の二曲がラジオにながされた。また、「ナイトアンドデイ」には、リー・タッカー(ベース)、ラリー・ノバク(ピアノ)達多くのジャズミュージシャンが訪れた。彼らが入れ替わり立ち代わり無償で演奏するせいで横浜の人はジャズはただで聴けると思い込みつづけていたのではないかと菅野は苦笑している。

その頃、ロカビリーのバンドが次々と誕生した。ある日、菅野の自宅に鈴木勲が平尾昌晃を連れてきた。世の動向に敏感な鈴木に誘われて菅野は平尾のバンドに加入する。3人に加えてドラムの小林たけすけ氏、ギターのももざわ氏がメンバーであった。平尾のこのバンドは、「美代ちゃん」「星は何でもしっている」などのヒット曲をだす。1961年に平尾はこのバンドでシングル盤「おもいで」をキングレコードからリリースするが、そのB面は菅野の作曲の「しあわせは音もなく」である。また、このバンドが中心になったメンバーで、菅野の兄の菅野沖彦氏監修の朝日ソノラマのソノシート「灼熱の太陽」を発表する。(そのうちの3曲は後援会発売の復刻版CD「The Early Days」に収録されている。)日本のジャズのレコーディングとしては秋吉敏子さんと嚆矢をあらそうものだ。しかし、平尾は当時の音楽の方向性に自信が持てなかったのか、実家の化粧品会社の経済問題に徒労したのかバンドを解散する。

その後菅野はボン上野、三橋兄弟のバンドを手伝って都内各所のクラブ、喫茶店で演奏したり、時には北海道まで遠征したりしていたが、やがて自身のトリオ(ドラムの小林たけすけ氏、ベースの谷やん)を結成し、青山学院裏の「青山クラブ」で演奏することになる。時間がある時には「ニコラス」でピアノを弾いていた。その「ニコラス」でトニー・スコットに出会ったこと、旧華族のお屋敷や米軍のキャンプ地で演奏したことは前章で述べた。

1962年1月にはホレス・シルバーが来日し、厚生年金会館をはじめとするコンサートを行っている。厚生年金のコンサートは、ホレス・シルバーのバンド(ブルー・ミッチェル‐tp、ジュニア・クック‐テナー、ジーン・テイラー‐ベース、ロイ・ブルックス—ドラムス)と、ロニー・ボール、クリス・コナーのバンドの二本立てであった。菅野がホレスに最初に出会ったのは、厚生年金のコンサートの数日前、厚生年金のはす向かいの「キーナ」の2階である。紹介してくれたのがトニー・スコットであったか、当時ホレスの車の運転役をしていた出光の社長令嬢であったか、菅野の記憶は定かではない。ホレス・シルバーは、その豪放なピアノからは想像できないほど私生活ではごくごくまじめな人物で、マリファナや薬には無縁のピアニストであった。

ある夜、日本洋楽界の先駆的評論家の福田一郎氏が「青山クラブ」にホレス・シルバーの面々を連れてきた。その夜、ホレス・シルバーのおはこのひとつ、セニョールブルースに和してながいアドリブを展開したトニー・スコットの演奏を、菅野は一番感動した素晴らしいものだったと今でも語っている。福田氏はロニー・ボールとクリス・コナーも「青山クラブ」に連れてきた。菅野は彼らの曲目と演奏が厚生年金で聴いたもの同じであったことにいささか失望したようだ。即興演奏家の菅野ならではの感想である。筆者はたとえば菅野のミスティを何十回と聴いたが一度たりとも同じ演奏はなかった。

後年クインテットを組むことになる松本英彦を菅野に紹介したのもトニー・スコットである。場所は六本木のスターズアンドストライプス新聞社(星条旗新聞社)内のクラブであった。

第十一章 佐渡 

 ホームページでは菅野のピアノの枯葉のバックに佐渡の四季の画像を流している。「素敵な画像ですね。」「佐渡に行ってみたくなりました。」等々色んな感想をいただいている。その画像は、菅野の大ファンの新潟テレビ佐渡在住のカメラマンの内藤隆氏の提供によるものである。

ホームページの冒頭に佐渡の風景をながしているのは、内藤氏の画像の素晴らしさに加えて、佐渡は菅野の母上の生まれ故郷であり、菅野自身も小学生の3年間を過ごした地でもあって、なによりもその地での「音」が菅野のなかに音楽の原体験として生き続けているからである。今回は佐渡を中心として、菅野の幼年期、小学生のころを紹介したい。

菅野邦彦は東京生まれだが、ほどなく一家は父上の仕事の関係で大阪に転居し、仏教系の「さとり幼稚園」に入園、一年在籍?する。ただ、初日に尼さんの園長先生から顎をなでられながら「兄さん(沖彦氏)も悪そうだったけれどあなたはもっと悪そうね。」と言われたのが気にさわって2日目からは通園せず、お弁当を楽しみながら遊びほうけていたらしい。一年後一家は鎌倉の琵琶小路にうつり、鎌倉の「ハリス幼稚園」に入園する。その初日が鶴岡八幡宮の祭事(お祭り)にあたっていたらしく、母君のお弁当に加えて大きいバスケットにはいった多量のお菓子セットが配られて、菅野はいたく感動し、それを楽しみに翌日も通園したが、バスケットは配られず、失望した菅野はそれから通園することはなかった。(結局、大阪で1日、鎌倉では2日しか幼稚園に行かなかった。) 兄弟姉妹が多く、お弁当を持たせていた母君も不登園にきづかなかったらしい。菅野は近所の相棒の悪童と浜に出ては、漁師の網の中から小魚を選んでは海に逃がす手伝いをしたり、野犬刈りで捕まった野犬を檻から逃がす悪さをやっていた。(針金の先にわっかをつくり投げ縄のように釣金を投げて野犬の首にわっかをかけて首を絞めながら釣り上げる。狂犬病防止のためか当時は全国的に行われていて、筆者も大阪の堺の地で何度も目撃している。西部劇のカウボーイの投げ縄のように見事な技であった。) もっとも、悪さばかりではなく、鶴岡八幡宮の裏の松林で拾い集めた松ぼっくりはよく燃えて風呂をたく助けになると家のお手伝いさんに喜ばれた。鶴岡八幡宮には数多くの祭があり、祭りの日には街じゅうが太鼓の音に包まれる。ある時菅野は山車の上の梯子の上で小さな太鼓をたたき続け、兄の沖彦氏が何度声をかけても降りてこなかった。打楽器への興味は生来のものであったらしい。

父君の健介氏は、鎌倉から時間をかけて電車で東京の凸版印刷に通勤していたが、やがて一家は西荻窪に引っ越すことになる。

西荻窪に移り住んでしばらくして父君に召集令状がくる。ジャワでの軍票の印刷のため、印刷技師とともに招集されたらしい。大佐待遇ということで軍刀が贈られそれを床の間に飾ったことを菅野は覚えている。

一年後には戦況が悪化し、一家は祖母を残して母の故郷の佐渡に疎開する。母君と兄弟姉妹5名の総勢6名であった。(末娘「てこちゃん」はまだ母君のおなかのなかで、母君は身重の身で移住した。「てこちゃん」は佐渡生まれである。)

佐渡の最初の地は砂金で有名な西三川の母君の従兄の次男の家であった。その西三川で菅野は敗戦の玉音放送をきいている。その後ソ連軍が佐渡に攻め入り男はたまをぬかれ女は凌辱されるという話が駆け巡り、大人、子供をとはず一晩で一人10本の竹槍をつくるよう命じられた。菅野は手に血を流しながら1間半の10本の竹槍を作った。ところで母君の従兄の彼はなかなかの豪傑で、すぐ近くの家にお妾さんを住まわせていた。菅野兄弟は両方の夫人から可愛がられたそうだ。

母君は自身も従兄から口説かれそうになった不安もあってか、兄の沖彦氏の佐渡中への進学を機に、西三川から河原田に引っ越し、ほどなく佐渡教会の2階に住むことになる。(祖母が信濃町教会のクリスチャンであったことが佐渡教会の野村穂輔牧師を動かしたのかもしれない。)

この地で菅野は身にしむことになる二つの音楽体験をする。ひとつは学校にも行かずたたき踊り続けた「おんでこ」(鬼太鼓)の太鼓と踊りであり、もうひとつは始終2階にきこえてきたオルガンの教会音楽「讃美歌」である。

悪童菅野の河原田での相棒は最初に住んだ家のとなりの魚屋の息子であった。相棒は、自分の魚屋の店の天井からゴム紐にぶらさがった籠の中から売上金の小銭をくすねては菅野と遊びまわっていたが、ふたりとも「おんでこ」に熱中する。菅野によれば「おんでこ」の踊りは、右手を斜め上方に突き出すと同時に右足を踏み込み、続いて左手を上方に突き出すとともに左足を踏み込む。つまり、右手右足、左手左足の交互の動きが基本だという。二人は学校にも行かず、魚屋の隣の諏訪神社や近所の光福寺(お寺にも太鼓があった)で太鼓を打ち続けた。どちらも咎めることなく太鼓を使わせてくれた。

「おんでこ」は神社の祭事に奉納される。(現在では独立した興業としても開催されているようだが) 素っ裸のうえに(褌もつけず)衣装の着物を一枚はおり(その衣装は何十年も洗濯せず、とてもとても臭い) 鬼の面をつけて、髪を振り乱して激しく踊り太鼓をデンデンデデンデ ンデンデ デレスケ デンデン (最後のデンデンは倍テンポ) と独特のリズムでうつ。人々は地面に座り見物する。男性の鬼は人々のなかから好みの女性を見つけ、鬼の面の眼から視線を外すことなく踊り続ける。見つめられた女性はほとんど腰を抜かし立ち上がれなくなる。踊りの途中で鬼は反り返り頭上で太鼓をたたくが、その時薄緑の薄い衣装をとうして、いちもつがおったっているのがわからないと不合格で次回失格となるそうだ。

「おんでこ」は500年ほど前にいろんな民俗舞踊が混じって成立したといわれているが、菅野はもっと古くからあったのではないかと思っている。

河原田から遠くはない景勝の地に、真野御陵、真野宮がある。真野宮は順徳上皇を奉紀している。順徳上皇は父の後鳥羽上皇、兄の土御門上皇とともに承久の乱をおこし、敗北後、父は隠岐に、兄は土佐に、自身は佐渡に配流となった(24歳―46歳)。父の後鳥羽上皇は稀代の遊雅人、和歌、蹴鞠、相撲をはじめあらゆる遊戯に長じ、また宮中に白拍子を招き入れて遊ぶなど、平安宮廷文化最後の大帝王であり、祭事の最高者の自覚をもった国王であった。父を深く崇拝していた順徳も、配流後も、和歌のみならず(和歌の師は藤原定家。定家の選んだ新勅撰和歌集には鎌倉幕府に気兼ねしたのか後鳥羽、順徳の歌は選ばれていないが、百人一首には両者とも入っている。) 祭事も重要視していたのではないかと思われる。天皇の第一の神事は五穀と人の豊穣(生産)を祈ることであった。真野は当時小宮中の様を呈し、様々な神事、お祭り、奉納の催しがあったのではないか。「おんでこ」の起源もその頃にさかのぼるのかもしれない。

何十年もたって、菅野は、ドラムのモンキー・小林氏に勧められて再度佐渡にわたり神社のなかのクラブ「アゲイン」でライブを行った。その時「おんでこ」の太鼓をたたいたが、満員の聴衆が“久々に正調の「おんでこ」を聴いた”と大興奮、全員が立ち上がって踊り狂った。その時の聴衆の一人がこの章の冒頭で紹介した新潟テレビの内藤氏である。翌日内藤氏は、正調を教えてやってくれと菅野を「おんでこ座」に連れて行ったが全員不在で教えることはかなわなかった。(現在「おんでこ座」は著名な和太鼓演奏集団。何度も世界ツアーにでている。)

一方、自宅の2階で階下のオルガンの讃美歌を聴き続けた(聴かされ続けた?)菅野は、オルガンに興味はなかったというが、いつの間にかそれぞれの曲のメロディ、曲の骨、神髄を身にしみこませたらしい。今でも時折求めに応じて讃美歌を弾くことがあるがいずれの曲も讃美歌でありジャズである。

全く連絡がなく、生きているのか死んでしまったのか不明の父君から突然新潟についたとの連絡がきた。翌朝、菅野は兄とともに両津の湊に父を迎える。数日後、末娘を含めた一家8名は西荻窪へと帰る。

西荻窪の居間には屋根を突き破った巨大な1メートルはあろうかという石が突きささっていた。東京大空襲の折かは不明だが、祖母は知人の家にいて難を逃れた。

父君の健介氏は出征時ジャワに爆撃機にのって到着したが、その時米空軍の急襲をうけた。2つの防空壕にわかれて逃げ込んだが、一方が機銃掃射にあい、父君は九死に一生を得た。戦況はすでに逆転していたのだろう。

健介氏は当時ジャワに滞在していたピアニストのリリー・クラウスの大きな屋敷を接収する。ハンガリー出身の名ピアニストは1930年代に来日しているのでクラシック音楽好きの健介氏は彼女のことを知っていたのか、監禁はせず、逆に好きなピアノをひかせて、保護状態の軟禁措置をとった。彼女の家族、多勢の使用人にも同様の措置をとったらしい。そのせいか、(彼女達の口添えがあってか)敗戦後、ジャワからの第1陣として帰国できたそうである。

第十二章 スコットランドほろ酔い通信・ウマ便り・特別編

「僕の菅野邦彦物語」― ある奇跡的ピアニストの肖像 ―    内間天馬

~~~~~~~~~~~~~~~~~  前にも紹介したスコットランド在住の内間天馬氏から「僕の菅野邦彦物語」をいただいた。一人のファンの熱烈な思い、菅野の一面が綴られている。ご紹介したいと思った次第です。(青山)  ~~~~~~~~

もし、菅野邦彦(すがのくにひこ)のピアノと出逢(であ)っていなければ、僕の人生の上に広がる空の輝度(きど)がやや違ったものになっていたのでは…と思うことがある。 大袈裟(おおげさ)かも知れないけど、菅野邦彦のピアノってね、人の人生に輝きをもたらすものじゃないかとも思っている。このことを、誰に感謝すればいいのだろうか?

実は、僕はそれをよくわかっている。この物語の最後にそれを述べることにしましょう…

1973年頃だったと思う。偶然出逢(ぐうぜんであ)った二百枚限定のそのピアノトリオアルバムは衝撃的だった。ジャズピアノに傾倒(けいとう)していた僕だけど、まさか日本にこんなピアニストがいるとは夢にも思っていなかったので、もう、心底驚いた。 ピアノ菅野邦彦、ベース本田英造、ドラムス植松良高の<Mr. Heartache>… すべてのトラックが素晴らしい。

菅野の、迷うことのない強靭(きょうじん)かつ明解なタッチ、硬直的発想のない、自在に飛翔(ひしょう)するポジティブなインプロビゼイション… なにより、弾いている本人が、ピアノを弾くのが楽しくて楽しくて… そんな思いが、もう、ひしひしと伝わってくる見事な演奏なんや。

一曲目、そのエンディングが、見事にきっぱりと終わる<Linton Garner Blues>は、この日の菅野邦彦に迷いがなかったことを示している。続く、これ以上ないリラクゼーション、ジャズ史上、ピアノトリオによる最高の<Satin Doll>、フォービートが雲の上で弾(はず)んでいるかのような<Give Me The Simple Life>…、そして、バラードをこれだけ退屈させずに聞かせるピアニストは、アメリカにもそうそういないと思う…

<A Place In The Sun><By The Time I Get To Phoenix><Lush Life><Good Morning Mr. Heartache><Little Girl Blue>… どれも、もう、夢見るような演奏なんだ…

縁があって、今、スコットランドに住む僕だけど、ヨーロッパという狭い地域にこんなに多くの国が寄(よ)り添(そ)っている中で、仕事や取材も兼ね、様々な国へ出向く。でも、ホリデーは、毎回、ギリシャ、イタリア、スペインなど、大好きな地中海沿岸へ行くことにしている。東京大阪往復よりはるかに安い、座席指定さえない激安航空が、ほんの二時間程度で、天気の悪いスコットランドから、太陽が燦々(さんさん)と輝く地中海へ連れていってくれる。そんな僕のホリデーに、菅野邦彦後援会会長の青山さんが送ってくださった<Mr. Heartache>は、必ず持っていく。

地中海沿岸の透き通るような海のビーチでデッキチェアをうんと倒し、さらに脇にワインなどはべらせ<Mr. Heartache>を聴く…これが最高のひとときですね。そう、まさに A Place In The Sun で聴く菅野邦彦… このアルバムはね、不思議なことに、昼夜を問わず場所を問わず、いつでもどこでも楽しめるんです。そういう意味では、普遍的ミュージックだと云えるかもしれない。マイルズ・デイヴィスの<ラウンド・ミッドナイト>…燦々(さんさん)と太陽が輝くビーチで聴きたいと思う?

南スコットランドを代表するFM局で、<Mr. Heartache>が、オンエアされたことがある。もちろん、知り合いのジャズ好きのディレクターが、菅野邦彦のピアノに驚嘆したのは云うまでもない。さらに、その放送を聴いた、スコットランドの有名な写真家が、FM局を通して僕に電話してきたことがあった。―スガノのことをもっと知りたい―…

かなり以前のこと、偶然知り合った、昔のフェラーリに乗るロンドンの大富豪・レベッカさんが大のピアノ好きだと知った時、彼女のスコットランドの別荘で、菅野さんの九州での<ライブ!>を聞かせたことがある。ロンドンの自宅のパーティーでアンドレ・プレヴィンがピアノを弾いたことがあると云う彼女…、菅野さんが、For Once In My Lifeのテーマをルバートでゆっくり慈(いつく)しむように弾き終えたあと、意表を突くようにリズムを伴い豪快なスィングを始めた瞬間、両手を大きく広げて立ち上ったレベッカ…―スガノ!ってなんていうピアニストなの!―そして、地下のワインセラーから持ってきたドン・ぺリニヨンのヴィンテージ・ロゼを開けながら云った。―ウマ!今日は特別な日だわ。私、スガノを聴きにジャパンに行くわよ― 夢のようなシャンパンを戴きながら、彼女に云った…―レベッカねえ、スガノには、Mr. Heartacheって云う、僕の最愛のアルバムがある。レベッカに是非聴いてもらいたいけど、もう入手不可能なんだ―…おととしのことだった…、青山さんに送っていただいたMr. Heartacheを、ジャパンに行くことなく76歳で急逝したレベッカのロンドンのお墓で、彼女に聴かせた。

1970年代半(なか)ば頃、当時、菅野さんは人気絶頂だった。ジャズ誌の人気投票でも常に上位にいた。その人気は、信仰的(しんこうてき)といってもよかったと思う。 当時、菅野さんのアルバムは、片っ端から買った。そして、ライブもよく聴いた。初めてライブを聴いたのは、南青山にあった<ロブロイ>だった。僕は、この店で、乗りに乗った菅野さんの演奏を何度も聴いている。<グリーンドルフィン・ストリート>…途中から強引にリズムを速くし、アップテンポのオクターブが、右に左に目にも止まらぬ速さで飛ぶ演奏に、カウンターの僕の隣にいた浅井慎平(あさいしんぺい)さんなど―もう、誰にも止められねえや!―と興奮していたのを思い出す。

あの名曲ミスティの作曲者として知られるエロル・ガーナーを信奉(しんぽう)する菅野さんだけど、その昔、スィングジャーナル誌付録の<日本ジャズ人名辞典>のなかで、フィニアス・ニューボーンJr. を好むと述べておられたことがある。ロブロイでの、飛ぶようなオクターブを目の前にして、オクターブ奏法の名手として知られたフィニアス・ニューボーンJr. を思い出してしまった。

このロブロイで、ある時、若いベーシストの方が、菅野さんに、なにやら音楽上の質問をしているのを目の前で見たことがある。菅野さんは、自分の左手の指をベースの弦になぞらえ、紙に譜面やコードを書き、懇切丁寧(こんせつていねい)に、そのベーシストの方に説明していた。その時、そのベーシストの方の、充分納得した笑顔を見て僕は思った…菅野さんって、ミュージシャンズミュージシャンだなあ。つまり、ミュージシャンが頼りにしているミュージシャンなんですね。

このロブロイで、二百枚限定の<Mr. Heartache>にサインしていただいた。そのLPには109と手書きのナンバリングがあったけど、その番号は菅野さん自身がお書きになったとは、ん十年も経(た)ったあとで知った。菅野さんのサインは、グランドピアノをデフォルメした素敵なサインだった。ジャケットの淡い白黒写真には、1950年代のツーシーターサンダーバードのハンドルを握る菅野さんの横顔が、サイドウィンドウ越しに映されていた。このジャケットデザインは、表も裏も、秀逸(しゅういつ)なデザインだったと今でも思っている。そして、菅野さんが、―この写真は名人が撮ったんですよ―と云ったのを今でもはっきり覚えている。だけど、ひょっとして菅野さんの弟さんが撮ったかも?…誰かにそんなこと聞いたような気がするんだけど… そうそう、LP<Mr. Heartache>のライナーノーツは、録音を担当された菅野さんのお兄さん、名録音エンジニアだった菅野沖彦さんが書いておられた。その中で、沖彦氏は、―邦彦は繊細過(せんさいす)ぎてレコーディングが苦手なピアニストだ―と指摘しておられた。松本英彦氏や宮沢昭氏など、日本を代表する錚錚(そうそう)たるミュージシャンを集めてのレコーディングで、菅野さんは、アーとかウーとか発するだけで、とうとうピアノを弾かなかったという。

で、なぜ、レコーディングが苦手なのか? ロブロイで、菅野さん自身にそれを確かめると、―女の子といちゃいちゃしてるのを人に見られたら嫌でしょ―と、なんとも面白い表現を彼はした。その時、…ピアノは菅野さんにとって恋人なんだな…と、妙に感心した。

そのライナーノーツで、沖彦氏が披露(ひろう)しておられた話には笑ってしまった。 好奇心旺盛(こうきしんおうせい)な菅野さんは、女性のO脚を矯正(きょうせい)する器具を発明し、その器具に、<ダックスフンド>!って名付けたんだって。

そんな菅野さんの初めてのリサイタルが、新橋のヤクルトホールであった。当時の彼の人気を考えると、大きなホールが満席だったのは当然だった。でも、コンサート終了後、僕は思った…、菅野さんは、こんな大きなホールの大観衆の前で演奏するには繊細過ぎる…

貧乏学生だったにもかかわらず、六本木の<ネロ・ビアンコ>、そして<ミスティー>などでも、菅野さんのライブをよく聴いた。<ネロ・ビアンコ>では、ベースの鬼才・鈴木勲さんがピアニカを吹き、菅野さんがベースを弾くのを見たことがある。 銀座の<ジャンク>…いや<スウィング>だったかな? 演奏終了後、つまり、アフターアワーズですね。一番前の席に陣取(じんど)った僕や菅野ファンの仲間のリクエストに、菅野さんは嫌な顔を見せず、<アフターアワーズ>を延々と演奏してくださったこともあった。ファンに対して偉そうな態度など微塵(みじん)もない方だった。 いつもニコニコしている彼に…菅野邦彦って屈託(くったく)のない永遠の少年だなあ…と思ったことがある。

話が前後するけど、当時、僕は、築地の佃煮(つくだに)問屋で早朝からのアルバイトを終えたあと大学に通っていた。そこの若旦那(わかだんな)が、―ウマはジャズが好きなんだってね。六本木にすごく上手なピアニストが出てる店があるから一緒に行こう―と誘ってくれた。それがネロ・ビアンコで、ピアニストが菅野さんだったのには驚いた。この若旦那、―僕の友人の結婚式で菅野さんにピアノを弾いてもらったよ―と云うので、―エッ? まさか! 彼、引き受けたんですか? 菅野さんは日本最高のジャズピアニストですよ?―。―へぇー、そうなの? でも菅野さん、機嫌よく引き受けてくれたよ―

当時、南青山に住んでいた僕は、早朝、築地市場へ行くのに、表参道駅から地下鉄を利用していた。ある早朝、根津美術館方面から走ってきた菅野さんのサンダーバードが、僕の脇を通り過ぎ、表参道を原宿駅方面へ走り去ったことがある。その頃の表参道は、まだ中央分離帯がなかった。恐らく、ネロ・ビアンコからの帰りだったんじゃないかな。その丸いテールライトを紅(あか)く灯(とも)したサンダーバードの後ろ姿は、実にかっこよかった。まるで、ウェス・モンゴメリーのアルバム<ロードソング>のジャケット写真を見てるみたいだった。僕は茫然(ぼうぜん)と、そのサンダーバードが視界から消えるまで眺(なが)めていた。菅野邦彦…なんてかっこいいんだろう…

古本屋で買った、昔むかしの、たしか180円?の頃のスィングジャーナル誌に、菅野さんが新人として紹介された短い記事があったのを思い出す。―ジャズメンが好む英国のMGやトライアンフではなく、この新人ピアニストはアメリカのサンダーバードに乗っている…そのサンダーバード、坂本九さんに譲っていただいたって聞いたけど…

ミスティでは、あの長いニューヨーク・スタンウェイを弾く菅野さんのすぐ後ろにもカウンターしつらえの席がいくつかあった。つまり、真後(まうし)ろから、菅野さんの背中をすぐ目の前にして、彼の演奏を聴くことになる。当時、大阪でジャズシンガーをしていた僕の妹が、ミスティーのその席、つまり菅野さんの真後ろで、初めて彼の演奏を聴いたあと、僕に云った…―おにいちゃん、菅野邦彦…、この人天才やわ―… でも、今から思うと、繊細な菅野さんにとって、すぐ後ろで自分の背中を見られながらの演奏は、あまり快適じゃなかったんじゃないかな? だって、ほら、例の、<彼女といちゃいちゃしてるところを…論>の菅野さんだからね。

一番最後に菅野さんの演奏を聴いたのは、僕が地元の大阪に戻っていた頃だった。大阪南は難波(なんば)にあったライブハウス<845(ハシゴ)>… ヴァイダボックスの大きなスピーカー、そして、ピアノはベーゼンドルファーだった。その頃の菅野さんは、もう、カリスマ的ピアニストといってよかった。ソロ演奏の休憩時間に、菅野さんとほんの少しお話しすることが出来た。その時、彼は、―ブラジルへ行くんです―と、おっしゃった。僕は、てっきり、ブラジルのミュージシャンとボサノバのレコーディングをするんだろうと思った。

そして、人気絶頂の時に、忽然(こつぜん)と日本から姿を消した菅野邦彦… まさか、それが、死にも直面した長~い波乱万丈(はらんばんじょう)の世界放浪の旅へと続く第一歩だったとは思わなかったなあ。

さて、今も元気にピアノを弾く菅野さんは、長年の試行錯誤(しこうさくご)を経(へ)て、なんと平らなキーボード、未来鍵盤のピアノを開発した。もちろん長いピアノの歴史の中では画期的なことです。菅野邦彦後援会のブログで、初めてそのピアノを見た僕は、例の<ダックスフンド>を思い出した。好奇心旺盛(こうきしんおうせい)な菅野邦彦って、実はすごい発明家でもあったんですね。

僕は自分の子供たちに、自分の音楽の趣味を押し付けたことは一度もない。だけど、結果として、三人とも楽器も器用にこなす音楽好きになってくれたのは非常に嬉しい。特に長女のくれあは、ロンドンを拠点(きょてん)とするプロのミュージシャンとして、英国の超大物ミュージシャンと共に、しょっちゅう世界ツアーに出ている。2015年には、世界最大の野外フェスティバル<グラストンベリー>で、数万人の前で演奏する我が娘をBBCの実況中継で見た。そんな彼女が呆(あき)れたように云ったことがある。―おとーちゃんは、ほんまに菅野邦彦が好きやなあ―… そういう彼女も菅野邦彦のアルバムを何枚か所有している。

彼女のファーストアルバムでピアノを担当したイタリア出身のクリスチャン、今、ロンドンで活躍する才能豊かなジャズピアニストの彼も、菅野邦彦を絶賛している。 シシリー出身の若きジャズピアニスト、クリスチャンは云う…―もし、スガノが<ロニースコッツ(ロンドンの超有名ジャズクラブ)>でギグするようなことがあれば、僕は仕事をすべてキャンセルして聴きにいく―…

女房のキャロラインや子供たちには、かなり前から伝えてある……ええか!ウマの葬式では、菅野さんの<Mr. Heartache>を流し続けてや。参列者全員がワインを呑みながらそれを聞くんや… で、参列者に云って欲しい…―ウマは今、Place In The Sun にいます―…

仕事が忙しく、日々やることが山積していて、なかなか日本へ行く機会がない。目下のところ最大の夢は、日本へ行って菅野邦彦のピアノ、特に未来鍵盤を弾く菅野邦彦を聴くこと…これはなんとか実現させたい。

ところで、菅野邦彦の魅力っていったい何だろう? 彼より速く弾けるピアニストは世界中に数多くいる。彼よりテクニックの優れたピアニストも多くいるだろう。

で、僕が思う菅野邦彦の魅力… 彼自身の内にある非日常的感性 (普通じゃない感性) によって紡(つむ)ぎ出(だ)される、その個性豊かな美しいフレーズにその魅力が凝縮(ぎょうしゅく)されているのではないか…つまり、彼、菅野邦彦のファンは、彼が弾くピアノを通して、実は、彼にしかない個性豊かな、しかも詩情溢(あふ)れる、その感性に寄(よ)り添(そ)っているんですね。

さて、唯一無二(ゆいいつむに)のこのピアニストの存在、そして、その素晴らしいミュージックがこの世に存在する奇跡的事実を、誰に感謝すればいいのだろうか?

そう、もちろん、音楽の神様でしょう。 ミューズの神様… 菅野邦彦をこの世に存在たらしめてくださりありがとう…

ほんとうにありがとう。もう、無限なる感謝…

ミューズの神様…   菅野邦彦、そして…そして彼のピアノは永遠です…

2017年2月…スコットランドの我が家で<Mr. Heartache>を聴きつつ…                                                                                                            (完)

 

八重桜咲く我が家の裏庭でグラスゴー生まれの女房キャロ ラインと。富士山    や日本の田舎の風景、それに露天風呂が 大好きだと云う彼女、前世は日本人だったと云ってます。そうそう、僕がはいているのは、スカートではありません。民族衣装キルトです。

第十三章 書き忘れたことなど

菅野から聞いていたのに書きもらした事柄、事件、エピソードは多々ある。(筆者の怠慢である。) 今回はそのなかからいくつかを紹介したい

その1 菅野とスポーツ

菅野は大のボクシングファンでもある。本年(2017年)3月2日に、菅野の大好きなバンタム級世界王者の山中慎介が7回TKOで12回目の王者防衛を果したことに驚喜した。

父君の影響もあり、菅野のボクシング好きは、父君に手をひかれて後楽園球場特設リングの特別席で白井義男がダド・マリノをやぶってチャンピオンになったのを目撃して興奮した1952年5月19日にさかのぼる。さらに、ちょうどアイスホッケーに興味を覚えだした高校1年のころ、自分でもボクシングをやりたくなり、袋に砂を詰め手に手拭いをまいて自宅の庭で自前の練習を繰り返していた。ある日それをみていた父の健介氏のジャワでの戦友の弟の高津五郎氏が「3年で世界チャンピオンにする」といい、菅野は三鷹にあった高津五郎拳闘会に強引に連れていかれた。言わばスカウトされたのである。1日目は縄跳び、2日目はシャドウボクシングであった。3日目に「菅野さん、仰向けに寝てみて」といわれ、腹の上で縄跳びをされて音をあげた。自身でボクサーになることは断念したものの、爾来60余年菅野はいまも大のボクシングファンである。

菅野は様々なスポーツのファンだが、スポーツ選手がいい音、真の音楽(例えば菅野の演奏)を聴くとその選手は飛躍して強くなると信じている。

ボクシングでは、菅野の音楽を聴いていた川上林成は1963年スーパーウェルター級のチャンピオンになった。後の時代になるが、菅野のライブを聴いた具志堅用高は何度もチャンピオンを防衛した。

数年前になるが、テレビでフィギュアスケートの浅田真央選手をみていたとき、「あんな四方八方から録音された音がずれてきこえてきては滑りづらいに違いない。俺が生で弾くのを聴いて滑ればもっともっとよくなる。」と言っていた

同じく数年前、テニスの錦織圭選手にさる出版社を介してCDを贈呈したが、彼が強くなったのはそのCDを聴いたに違いないと思っている。

今、菅野が彼の音楽を聴いてもらいたいと思っているのは、日本の女子アイスホッケーの選手たちと、ラスベガスでの次の世界戦が予定されているといわれる山中慎介選手である。

その2 フィリー・ジョー・ジョーンズとのバトル

新宿の「48」(ヨンパチ)のことは前にも述べた。「48」には有名人、芸能人が集い、音楽を聴きながら、飲食、ダンスを楽しむのが常である。ある日、トニー・スコットがドラマーの名手のフィリー・ジョー・ジョーンズを連れてきて、菅野、三橋(ベース)のカルテットとなった。何曲目かに「I Remember April」をアップテンポで演奏したが、途中からトニーとフィリー・ジョーのソロ交換が続いた。アップテンポの演奏が続くので、お客はダンスをやめて二人の前に集まり聴き入っていた。しかし40分を超えても二人は止まらない。あまりのことに菅野はピアノの位置から「終了」の合図を送ったが無視された。致し方なく、菅野はお客の前、二人の前にうつり、両手をあげて斜めに組んだポーズで終わらせようとした。それを見て怒りくるったのかフィリー・ジョーがスティックを菅野めがけて投げつけた。それを発止とうけとめた菅野が投げ返すと、スティックはものの見事にフィリー・ジョーの頭に命中した。お客の大歓声でようやく演奏が終了したのである。

菅野とフィリー・ジョーが仲直りをしたのは、後年「マンハッタンフォーカス」を録音した1978年ごろのニューヨークである。

その日、菅野はアート・ブレーキ―のコンサートを聴こうと控室をたずね談笑していた。同じく先輩のドラミングを聴こうとフィリー・ジョーも控室にいたが、気まずい二人は口を聴くこともなかった。やがて公演開始の時がきて、アートとメンバーは控室を出て舞台に向かった。菅野とフィリー・ジョーの二人だけが控室に取り残された。その時、フィリー・ジョーが特別の贈呈品とともに握手を求めた。しっかり握手をして二人は仲直りをしたのである。

その3 「まるみ」の親父

日本のジャズ隆盛前夜1960年のころ、日本のジャズミュージシャン達はどこで本場のジャズに接したのだろうか。FENの放送、駐留軍キャンプ、輸入盤のレコード? 菅野の知る限り輸入盤のジャズのレコードは、新宿の紀伊国屋の近くの「まるみ」のレコード屋でしか取り扱っていなかった。「まるみ」の親父はレコードを買わなくても試聴させてくれた。当時のジャズミュージシャンの間で「まるみ」は有名で、多くのミュージシャンが「まるみ」で本場のジャズの息吹にふれた。菅野は「まるみ」の親父の功績は大であると力説している。

菅野自身幾度となく「まるみ」で試聴させてもらっている。一枚のレコードを何度も何度も試聴させてもらい(すりきれそうになるまで)、いくらなんでもとおもって購入したレコードがアンドレ・プロヴィンの「キングサイズ」である。(現在に至るまで菅野が買った唯一のレコードである。)

その4 テレビで初のジャズライブ ー ドロナベさんと久保田二郎

TBSのトップ、愛称?「ドロナベ」さんは、毎日霊柩車で通勤するユニークな人である。彼と親交があったジャズ評論家の久保田二郎がテレビで初のジャズライブの番組をプロデュースしたらしい。

麻薬で堀の中にいたドラマーの清水潤が出所するその日に、久保田二郎は、清水を出迎え、TBSテレビのライブでドラムを叩かせたのである。(久保田二郎は警視総監の息子である。)

当日は、菅野、鈴木勲、清水潤のトリオであった。菅野にとっては、ラジオでのジャズの初ライブ(第10章ポークチャップ参照)に加えて、テレビでのジャズ初ライブ出演となった。菅野のオリジナル「曇りのち晴れ」と「It Could Happen to You」が演奏された。(選曲の名というべきか。)

その5 ゲーリー・バートン

1963年当時、菅野は高輪プリンスホテルの「ナイトスポット」で杉原淳と交代で演奏していた。菅野は、鈴木勲(ベース)、原田雄司(ドラムス)とトリオで、杉原はイーストサウンズを率いて演奏していた。その高輪プリンスにジョージ・シェアリング・クインテットの一員として来日していたゲーリー・バートンが投宿していた。当時高輪プリンスは訪日ミュージシャンの定宿であった。(後には赤坂山王のヒルトンホテルが定宿になる。)ジョージ・シェアリング・クインテットは1週間ほど東京にいては地方巡業、東京に戻ってはまた地方で演奏というスケジュールをこなしていた。ゲーリーが高輪プリンスホテルに滞在していた時は、菅野のトリオの演奏が始まるとゲーリーはふらふらと現れてメンバーに加わりビブラフォンをたたいたそうである。菅野もその名人芸を堪能したが、曲目が常に「Green Dolphin Street」と「Little Girl Blue」の2曲だけなのが不思議で、不満だった。

その6 「太陽がいっぱい」アラン・ドロンとマリー・ラフォレ

1963年4月初めの1週間有楽町でフランス映画祭が開催されフランス映画界の監督、俳優たちが来日した。その折、高輪プリンスでレセプションがもたれた。進行係はドラムスの村上ガン氏であった。アラン・ドロンとマリー・ラフォレを中心に会は始まったが全く盛り上がらない。村上氏に何とかしてくれと頼まれた控室にいた菅野は、ピアノにすすみ、いきなり「太陽がいっぱい」のテーマを弾きだした。アラン・ドロンとマリー・ラフォレのふたりは大喜びの笑顔でウォーと大声をあげシャンペングラスを頭上にかかげ、すぐさま会場は大歓声につつまれた。結果として大盛り上がりの大成功のレセプションになった。

終了後二人は控室の菅野を訪ね、謝辞を述べた。菅野は、映画では気付かなかったがアラン・ドロンの長身(183cm)とマリー・ラフォレ(180cm)の大女ぶりに驚いた。菅野はマリーに強くハグされ、頭が彼女の胸の谷間にうずまり、彼女の胸のそばかすを記憶することになる。彼女は菅野に宿泊先の電話番号、部屋番号をしるしたメモを渡したが、大女が苦手の菅野はそれを使うことはなかった。

その7 ヘレン・メリル

1063年のある日、久保田二郎から電話があった。ヘレン・メリルが来ているので六本木の喫茶店(名前は失念)に行ってくれと言われた。なにやら不吉な想いがよぎったが鈴木勲と一緒に出向いた。喫茶店にはヘレン・メリルと彼女の日本公演をプロモートするスワンプロのスタッフが待っていた。そこにはアップライトのピアノがあって、案の定、歌の伴奏を頼まれた。曲は「Good Morning Mr. Heartache」であった。この曲は通常Cmのキーで運指がやっかいなことで有名だが、それを転調してEmのキーで弾いてほしいという。菅野は驚いて「What is your key?」と再確認をした。普通のピアニストならお断りするEmへの転調を菅野は必死にこなしたが、この経験が「平らな鍵盤」を求める大きな要因になっている。一方、リクエストに応えられたヘレンは、実に気分よさそうに歌い終えた。そして、菅野を気に入ったのか今回の日本公演の伴奏をお願いしたいときた。事情をきいてみると、スイス人のピアニストと来日したが気にくわず、八木正生に変えたところだが、菅野が気に入ったのでお願いしたいという。菅野はコロコロ伴奏者を変更する彼女や、八木の仕事をとることになるのに嫌気がさしたが、そうとは言わず、うまく伴奏できる自信がないとお断りをした。

翌日、菅野が銀座の仕事場「グランドパレス」に出向くと、スワンプロのスタッフが待っていた。そして「どうして断るんだ」「金か」「いくら出せばいいんだ」と威圧的である。菅野は自信がないのは本当だし、歌の伴奏はやらないのでと、何とかお断りをした。

ヘレンは大の 親日家で1966年に再来日し1972年まで日本に滞在し方々で演奏活動を行った。また、菅野がハウスピアニストで毎晩出ていた「ネロビアンコ」のあるビルの2階に一時、事務所を構えていた。しかしながら、最初の出会いがネックになったのか、一緒に演奏することはなかった。

現在、菅野は「平らな鍵盤」でヘレンと「Good Morning Me. Heartache」 をEmのキーで共演する日が来ることを楽しみにしている。