GRECOでのライブ

8月1日のライブのお店GRECOを さがゆきさんに手配いただいた。菅野にとって初めての出演になる。夕刻の豪雨がやや小ぶりになった午後7時すぎに菅野と私(青山)はお店に到着した。オーナーの大竹さんにご挨拶しその素敵な人柄の一端にふれ、お店の空間の空気を吸い、菅野の大好きなニューヨークスタンウェイのピアノをみながら「今宵はすごいことになる」と予感した。

予感は当たった。一発の即興演奏にすべてをかける菅野のピアノに仲間たちがそれぞれの即興で呼応してユニットが創りあげた一夜限りの「ほんとの音楽」を体でうけとる至福の時の連続。現場でしか味わえない「なまおと」に多くのお客さんが涙した。

そんなお客さんの一人の川崎さんの感激の一文を当日の仲間たちの写真とともに紹介します。

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「腰の決断」 川崎隆章

何かを作るということは『決断の連続』だ。もし、職業的に何かを作る立場に回りたいなら、小さい頃から決断の訓練をすべきだ。もし15歳を過ぎて『これだ!』という決断をした経験がない人は、モノツクリなんか仕事にしないほうがいい。決断できなくても出来る素敵な仕事は山ほどある。

昨夜(8月1日)の大塚・グレコでのライブを聴いて思ったことだが、いいライブはアーチストの決断の瞬間を山ほど見ることができる。決断なしに音楽なんかできるのかと思うかもしれないが、百年一通りのルーティンで食べている人もいる。そんなオルゴールのような人生でも、場所をどんどん変えれば食えるわけで、その生き方は否定しない。しかし、本当に『人が身を、魂を削る』ような瞬間しか味わいたくない私のような者は、それが人間オルゴールだとわかった瞬間にその場を離れる?

ライブな表現は本来『アンドゥ(やりなおし)』が効かない。音が出たら最後、後戻りができない。だから決断の連続となる。一音一音が死を賭した勝負になる。そこで、失敗しないように力を割り引いてはならない。むしろ安直化しそうな流れをスパン!と打ち破る決断が活きてくるのだ。

このレベルの演奏になると、手先の繊細さだけでは追いつけない。手先を引きずるほどの粘りのある動きが必要となる。いわゆる『腰でリズムをとる』感覚だ。これをグルーヴと呼ぶ人がいるが、最近はグルーヴのないものまでグルーヴと言っていたりするので、抗議の意を込めて、敢えて避けることにする。

『腰で決断する』のだ。腰の動き一発で全身が総動員されるのだ。腰で決断するということは、呼吸で流れを掴んでいることになるから、まさに全身でリズムを作り出しているのだ。

昨夜の四人は、珍しいことに、全員が『腰で決断する』タイプばかりだった。だから、皆動きは蝶の羽根のようにバラバラなのだが、重力の帰結点がビシッと揃っていて、その過激な寄り添い方に聞き手は覚醒する。なぜ重力の帰結点が揃うのか。呼吸があっているからだ。

ピアノの菅野さんが演奏中、流星のようなフレーズを展開することがあるが、それはらまさに腰から打ち上げられた爆発的な力で星屑が燦然と砕け散るのだ。そもそも菅野さんは曲の全てを腰で弾いている。演奏中、菅野さんの足腰の動きを見ると、その細かく激しい躍動にビックリするだろう。優雅に進む水鳥が水面下でどんな激しく繊細な動きをしているか。これは見なければ損だ!

チェロのミッちゃんが、巨大な湖から水が溢れだすように、壮大で豊かなメロディを奏でることがある。細部から全体までさまざまな揺らぎを持ったまま巨大な水流が溢れ出すのだ。このスケール感は、彼女の『腰の決断力』が生み出すものだと思う。昨夜のグレコは、この『水芸』が存分に楽しめたのが最高だった。

いつもは六本木のclub tで聞いているのだが、私の座る位置のせいか、ステージの向きの問題かで、チェロがあまり響いて聞こえなかったのだ。しかし、グレコで聞いてみると、実はミッちゅんのチェロがこのユニットに柔らかい厚みと溢れるような流れをあたえていたのがわかる。これを知ると知らないとではあまりに違っていた!やはり、場所ごとに音は変わる。だから現場に聴きに行くのだ。

歌とギターのさがゆきさんについては、私は、彼女がギターを弾き始めてまもない2011年の秋には『腰でギターを弾く人だ』と見抜いていた。まだ弾き始めから一年もたたない頃から、彼女のギターには『昔の豊かな音楽』を思わせる『腰』の感じがあった。最初から指先でなんか弾いていない。腰で決めて、指は思うがままに自由に走らせているだけだ。いや、こんなことは、習い始めの人ができるものではない。

さがゆきさんがたった五年で、共演者から絶大な信頼を受けるところまでギターが上手くなったのは、理由がある。もちろん、時間的努力によることは言うまでもないが。

語学の上達が早い人は、単語に拘らない。文脈に意識を向けるから、知らない単語が多少あっても支障ないし、話す時も持っている語彙の範囲でぐんぐん組み立ててゆく。文を読んでも、流れと構成が把握できているから、アーティキュレーションが的確だ。だから、読んでも話しても『通じる』そして『相手の心を掴む』のが早い。

さがさんのギター上達の陰には、歌で培ってきた『文脈をとらえる感覚』と、フリーインプロヴィゼーションで鍛えた『あらゆる場面で力点を見つけ腰に決断させる鋭さ』が重なったことがあると考える。ただ五年間地道に練習したって、ああは弾けない。もちろん、弾き歌いの時ノッてくると刻みが走り出すとか、ここぞと決める場所で力が入りすぎることがあるとか、アラをさがせばいろいろ出るだろう。しかし、その全部を積み上げても『腰のギター』が持つ、心地よい重さや唄との一体感、空気を揺り動かす力の積み重ねには到底及ばない。正確さ以上の価値がある。いや、文脈的に正確なのだ。これがわかる人は、どれほどいるだろうか。

もし、さがさんがもっと若い時からギターを触っていたら…というのはいい質問ではない。多分、指先が器用で練習を苦としない彼女ならすぐに弾けるようになっていただろうが、腰の決断にリンクするまで、遠回りすることになったのではないか。唄の『グルーヴ』が完成し、フリーインプロヴィゼーションで決断力が圧倒的に鋭くなったあとから始めたから、こんな唯一無二のギターが生まれたのだと思う。

佐々木豊さんのパーカッションは、もはや端から端まで決断の連続。これはガチンコの喧嘩並みの緊張感だと思う。全体に流れがない時には蹴りを入れ、全体が流れているときは全体をぶち壊す寸前の気迫と音量で一発撃ちこむことがある。こんな型破りが許されるのは、メンバー全員が自分の重力を持っているからで、独立した四人が、見事に寄り添って、極上のアンサンブルがうまれ、かつ、それを絶妙のタイミングで爆破して次のシーンを開くのだ。世界一平和な音楽テロリスト!北九州は若松のご出身とのこと。洞海湾を挟んだ向かいの区で育った私には、そのピリピリした豊かさが、少しだけわかる。昔の北九州の『ヤバさ』を思い出して、涙が出そうになる。

佐々木さんのドラム、そうは言っても必要最小の音数しか出していないことに気づく。シックにおさまりそうなのだが、出てくる音が、腰から決める衝撃的な拍動なのだ。また、佐々木さんは、楽器を叩くのと同じくらい『空気を』叩いている。このアクションは一見の価値がある!これは見に行かなければわからない話だ。

好き放題に書いてしまったが、夏バテぢ体調最悪の時でも、優れたライブで魂のおすそわけをしてもらうと、このくらいの言葉を迸らせたくなるのだ。なんだか、作文でエネルギーを使い果たしてしまったようだ。今年の夏は、暑いですね。